閑話休題
note さんにさっきの話を投稿してみた。どうやらコンテストがあるので、参加してみようかと。どうせなら、フィクションになるけど書いている「性別X」についての小説をあげてみようと思う。いっそ性別がXで成り立つSFや十二国記みたいな世界が書ければいいけどそういうわけじゃなくて普通の、今の話になるけど。
小説って書きたいという気持ちというよりも案外、苛立ちとか不安とかが積み重なってできあがる感じだなって思いながら書いているところ。しかしこう、投影している話を書くのってとても気力がいる。ノンフィクションを書いている人すごいなあ。
万年ファンタジーやSFが好きで生きてきたから、この手の話はとても胆力がいるなって自覚し始めました。(まだまだ途中というか、途中が一番書き悩む)
第一敲であげんのかよというのはご愛嬌だ。興味があったらみてください。(まだあげてないけど)
性別のないわたしは"同性愛"か"異性愛"か
性別がなくって困っている筆者の恋愛相談に、なるのだけど。もし時間があれば見てやって欲しい。
筆者は、小さい時から自分の性別についてあまり疑問は抱いていないけれどずっと違和感を抱いている。一応女性として生まれてきたから何の書類に○を打つにももちろん女性だ。けれど、女性かと尋ねられれば違和感があり、男性かと尋ねられれば違和感がある。
半分半分かと言われても、違和感がある。自分の体にも当然、違和感がある。わたしは比較的、人の裸体を見るのが苦手だ。洋画には付きものの裸体なのだけど、男性という肉体を見るのも女性という肉体をみるのも得意ではない。自分の体も苦手。人に触れられるのも苦手。形を意識してしまうから。器官を意識してしまうから。
背中から腰骨あたりまでを見るのはどっちかというと好きなんだけど。これは指を見るのが好きみたいな感じだ。フェティシズムだ。割愛頂きたい。
個人的にはズボンも履く、スカートも履く。メイクもする。けれど今の世の中はありがたいことに、だからそれは「女性だけがすること」ではなくなっている。ファッションとしてのジェンダーレスだって格好いい。まごうごとなく男性だとして生きているけど「綺麗に見せること」を生業に生きている人たちは美しい。
外にすっぴんでいっても特に恥ずかしいことはない。自分の顔はもう自分の顔だからなんでもいい。ただ、体が苦手。男性か女性か、どっちかを分けられるのが苦手。だから周囲に公言したことがほとんどない。自立心も高くてわたしはわたしであるも成り立っているから、自分が女性か男性かということで自分のアイデンティティを考えたことがあまりなかった。(初めて心底自分が女性で表にでろと言われたのは就活で、これまた嫌になって就活も辞めてしまった。最近は企業によっては該当なしの性別欄を作ってくれるところがあるらしい)
最近知ったけど、これはLGBTの分類でいくとXに該当するらしい。
Xジェンダー(X-gender)とは、出生時に割り当てられた女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々を指す。両方を区分する限りでは、中性、無性、両性、性別という枠組みから脱する、女性か男性か定まりきらない流動的であるというあり方など人により様々である。”wikipedia
いつの間にか、自分が分類されている区分ができている。なんだか最終手段な気もするけれど。あまり細かいことを言うのも……と思いつつ、そのXの性別が「両性」なのか「中性」なのか「無性」なのかの区分は確かにあるだろうと思えた。筆者はまだ自分の性別がXという人と話したことがないのだけど(もうすぐ三十路もくるのにねー!)この三つそれぞれが違えばまた、違ってくるんだと思う。
世界は白と黒でできてねーのかよ。面倒だ!って思われるかもしれない。けどまあ上手く白黒つけられなかったんだ。なので、なにもなかったということでいこう。フェアに笑
さて、わたしには十年来の片想いの相手がいる。
なんと、このお相手わたしの一番の親友(女性)ときた。
不思議だよね。最初はそんな自覚なかったのだけど。でも、どんな男性と付き合ってみても、友達と遊びに行っても、何か一緒に共有したいだとか、あれを見せたいこれを見せたいと思う相手は一人だけだった。
最初は一番仲がいいからかなあって思っていたのだけど。そのうち「あの子と来てたら」と思うようになった時にいかんいかんと思ってしまった。
あの映画良かったなあとか、自分が行きたいと言ったから来た旅行とか。それが「君がいること」を前提に考えてるなと自覚したときに、あ~こりゃあだめだと思ったのだ。
わたしはお付き合いは男性としかしたことがないし、お付き合いの最中でも遠出とかは親友の方が多かった。結局のところ自分の中で一番が決まってるんだなあと自覚した。ただ、自覚したところで何ができるわけでもなく今までのライフスタイルを保ってきているのだけど。
いっそ告白しとくべきだと思う?けど、個人的にはそう簡単じゃない。
まずは友達としての強い意識の問題があるのでそれを簡単に三つにまとめる。すると、
- 趣味(旅行や美術館や映画)の共有が一番やりやすくて、一番年月長い親友であること(今年十周年でした)
- 向こうは人とお付き合いしたことがなく(人に踏み込まれるのが苦手)わたしに時々彼氏がいたことを知っているということ
- 割と毎年春の頃やお互いの誕生日に「これからもよろしく」と言い合っていること(なんだかこの言葉を裏切るような気持ちになってしまう)
という感じ。とにもかくにも、自分がこの世界を感じている場面でこの親友がとても重要なポジションにいる。それが親友ないし友人だから保たれていると思うと、失うのは痛手すぎるし。正直万が一にも失ってしまったら、きっとこの先なんのためにいろんなものを見て感じているのかわからなくなりそう。どうせ何見ようとも君の顔が浮かぶ。
君と、見たもの感じたものを、共有することが好きだから。
恋愛観という問題でいくと、世の中にどう見られるかなあという怯えがある。
- 男性でもなく女性でもないというのは言葉で言う以上に体感としてわかりにくいということ(自分自身で時折何がダメなのかの線引きが曖昧になることもあるくらい) 誰かから見ればそれは結局、「女性同士」になるんじゃないのか。同性パートナーという区分にならないけれどそれを説得して回るのは厄介
- とにもかくにも「異性との恋愛」以外は理解を求めることを前提になってしまう
- 何よりもそれに相手を付き合わせてしまう。迷惑がかかるなあって感じてしまう
といった問題がある。一つ目はわたしにとってもかなり厄介だ。同性パートナーというわけでも異性パートナーというわけでもない。そんなあやふやなものであれるならありたい。名前をつけなくてもいいのならそのままでいたい。理論としては「君が好きだから」しかないのだけど。名前もないふらふらした在り方は外の世界に対して責任を負っていないことになるのかなあ。
同じことで悩んでいる人もきっといると思う。それに上手く沿えてるわけではなくてごめん。
あと、個人的な問題でもう一個。君はいつか目が見えなくなる。学生の時に出先で教えてくれたことを忘れてないよ。そのいつかわからないリミットを、勝手にリミットとして考えててごめんね。
例えばセックスもしないような(相手の肉体を見るのが苦手なので。性欲もないしなあ)プラトニックな関係であればそれを今までと変える必要があるのかと思う。けれど今の状態が事実恋愛だというのは難しい。三十路手前になって周りから結婚や恋愛あれこれを聞かれても、「好きな人」についてあまり深く掘り下げて話せない。片思いってそういうもんかな?でも、やっぱり親友としての君を語るようにキラキラとしては喋れない。
いっそ告白すべきだと思う?ずっと考えている。君が誰よりも一番なのは絶対で、世の中にはいろんな在り方があるということもわかっているよ。でも、恋愛になったところで何のメリットがあって、何が変わるんだろうか。お互いの一番が確約できて、誰か別の人を好きになったりした時に変化が訪れるんだろうか。
結局今までを壊すことが怖いだけの、臆病なやつなんだ。いい大人なのにね。
「恋はないけれど愛はある。」結局、わたしはどれが一番越えられない壁なのかがわからないまま、29歳の誕生日を迎えてしまった。
難しいね。
君が欲しいと思ったことはないし(束縛とかいろんな意味で)
少し卑屈で面倒な物言いをする君といることが幸せだという確証もないし
やりたいと思うことややらなきゃと思うことも全く違う
世界の付加価値みたいなものばかり共有している。なにを感じても同調ばかりするわけではなくて、理解しあえないって言い合うことや、その考え方はないなあと思うこともたくさんある。映画とか観たあと一番よくあれこれ言うよね。
世界を見ているその観点は同じなのだけど、そこから派生しているものが違う感じ。でもそれは、君という根っこから生えてるものだから一度も嫌いになったことがない。
「こういうタイプが好き」というのもある程度あるんだけど、それに君がたくさん当てはまるわけじゃない。例えばわたしは磊落な人や、好奇心の塊のような人が大好きだけど、君はそういうタイプでもない。
君が「今そうだから」好きというのにも語弊がある。10年間で移ろいあった君のこともそれなりに見てきているけどそれも結構愛している。仕事がしんどすぎて、昔と比べたら損なわれた部分がたくさんあるという自覚を君は話してくれた。でも別に、それでいいと思う。
途中から君が好きって言う話ばかりになったけど笑
でもやっぱり、普通の幸せみたいな、手順の少ない幸せについて考えればやっぱりただ男性で生まれてくれば、せめてただ女性で生まれてくれば"楽"だったかなとは思う。
なにせ「二人で乗り越えていけばいいじゃない」なんていう段階でもないもんね。どちらでもないことと、どちらでもあることの違いの説明は難しい。
でも、性別で区分けして話すとさ。ノーマルという形で君を好きになれるわけでも、レズとして君を好きになれるわけでもないんだ。
ずっと、どうしたらいいんだろうって思ってる。君はそのうち誰か男性と結婚して生きていくのかな。想像つかない分、ショックも大きい。家庭を邪魔するのは忍びない。結局一番になりたいっていう思いがあるんだ。そんなことを考えると、寂しいも、苦しいもちゃんとあるよ。
100歩譲って君が理解してくれたとしても、そのわたしの不透明さを世間に説明するのに煩わせるのは嫌だなあ。君と出会えたからこんなにもいろんな事が綺麗で楽しい。でも、君と出会ってしまったからこそいろんなことを考えてしまって苦しい。
「現時点」での結論はというと、まだ平行線、要するに臆病のままいるということだ。そのままでいるんなら何が起こっても文句なんて言うなよって思うかもね。わたしもそう自分に思う。
今の自分の気持ちも臆病ながらに大事なんだ。もしもそのまま、このまま、いけたならって思うからね。わがままだね。
いつか、君の目が見えなくなる時までなるべく見れるものを一緒に見ていよう。君の中で自分のポジションをそうやって10年かけてつくったからさ。くそくらえの我が儘だよ。自分のことばっかりだね。でも君が好きじゃなければこんなに臆病にもならない。
最近実家に戻ってきて、物理的にもますます君と離れて(とはいえ遊んだりするんだけど)余計に考えるようになってしまった。
と、同時に物悲しさとか変な苛立ちとかも秘めるようになった。うまくうまく、前みたいに消化できなくなってきた。
そんな思いをぶつけるために小説を書き始めたんだけど、なにをどうすればいいのかもわからないし、必要とされているのかもわからない。ただ滑り込みでいい機会を見つけたから、ちょっと投稿してみようと思う。
結局恋愛相談と書きながらうじうじしてなにもできない宣言をしてしまった。つらつら書いていたらそうなってしまったので、許して欲しい。
銀座というフィクション
そういえば先日、銀座ウエストさんが店内で騒がれるお客様の利用に関して苦言を呈されていた。
以前バーテンダー業を営んでいた筆者としてもその痛切な思いは理解できる。伝統と、それを守るための節度をずっと保ってきたという自負はもはや歴史の産物だ。
戦後、当時の状況で価格千円のコースを出そうと思ったのは驚嘆に値するが、その後の洋菓子店及びカフェとしての経営を続けていらっしゃるということがすごい。
銀座というフィクションを作ってこられたのだ。敬意を表してこの言葉を遣わせて頂きたい。もちろん今もそうだが銀座という街は高級街としてのブランドを確率し守ってきた街だ。建物のみならず音楽やネオンといったものまでこだわってこられた先人が何人もいる街だ。
憧れの街、ファッションの先駆けを用意してきた街だ。そこでずっと店を構えてきたという歴史や思い入れ、そして矜持に「客の言うことが大事だろう」と食ってかかるのはお門違いじゃなかろうか。
長い年月保ってこられた矜持を客としても守らなければならない。店には当然「ほかのお客様が雰囲気を楽しむためのマナー」がある。しかしこれは風格のある店にもなると「店を守るマナー」にも繋がるのだ。
店がお客を選べば高慢だという意見はしかし、何の責任も取れない言葉なのだ。見ず知らずの人間が土足で踏み込んできて店を荒らし、結果的には今まで利用していてくれた紳士淑女を追い出してしまう。そうしてしまえばもはや伝統ある店ではなくなってしまう。
売り物は、物理的なものだけではない。空間を提供するということはそういうことなのだ。その空間を嗜むことができない人間に開かれる扉はない。
その店の雰囲気を誰もが楽しみたいという気持ちに対して店はご自由にとしか言えないだろう。けれど、今までその空間を嗜んできた人びと同様に「身だしなみを整え」「紳士淑女然として振舞うべき」だと思う。
伝統に払う敬意とはそういうものだ。飲食店だからないがしろにしていいわけじゃない。その飲食店が愛されてきた歴史に触れるのだ。それ相応のものを払うべきだ。
嗜めず楽しむ。これは、不躾な言葉を遣って申し訳ないが迷惑だ。
付加価値がどうやって積み重なってきたのかを知った上で存在するマナーは守るべきなのだ。教育であればできるマナーがどうしてお客となった瞬間できないのだろう。
今までの伝統を壊して、何が楽しいのだろう。
誰もが最初は新参者だ。それはしょうがないことだ。けれど、名高い場所にいくのであればそれに恥じない風体で、きちんと事前準備をしておくべきだ。ドレスコードのあるような店はなぜドレスコードを指定しているのかの説明はしない。
今までそうやってその店の空間を保ってきた人びとへ敬意と感謝を持ってそうしているからだ。決して不躾なことはしない。
お店にドレスコードがあるのかどうかは、事前に調べ前もって心がけておくべきだ。ドレスコードのある店というのは最初から敷居を高くすることでお客を選んでいるし、ドレスコードを代表するマナーを守れない人間を他の客が白い目で見る。
ほかのお客を害さない。それが、店が要求している最たるものなのだから。
先日も書いたけれど、嗜むという言葉は、趣味だから自由という意味ではない。
① 芸事などを習って身につける。
② 好んで親しむ。好んで熱心にする。
③ 自分のおこないに気をつける。つつしむ。
④ ふだんから心がけておく。用意しておく。
⑤ きちんとした身なりをする。
といった意味合いだ。心構えというのは武道などでもよく言われる。茶道華道にやたら手順や決まりが多いのはこのためだ。
内側に向けられている茶道のような場所か、外側に向けられているカフェかという違いだ。その見極めができない人は、その店の客からお呼びじゃないと言われて当然なのだ。
さて、ドレスコードのある店と言われてどんなものが思いつくだろう。
冒頭に少し触れたがバーというのも一つ敷居の高い存在だ。明確にドレスコードをかかれているような場所は少ないが、オーセンティックなどは暗黙の了解とされている節もある。(オーセンティックが上位かはまあ、さておき。これ話し出すと戦争になるので)
会員制のシガーバーなんて上司に連れて行ってもらったことはあるだろうか?こういった、一見さんお断りのような場所に連れて行かれ借りてきた猫のようになったことのある若者は、もう少ないのかもしれない。(何せ君たちを連れて行くようなおじさん世代もこういった場所に連れて行ってもらえてないかもしれないから)
マナーというのは厄介なものだなと思う。必要だろうかと思えるようなしきたりから、その時々で移ろいゆくものまで漠然としたままマナーと呼ばれるからだ。
小さいコミュニティで作られるものが多いため、そのコミュニティごとのものを学ばなければならない。要するに自分が常に王様にはならないということだ。そして時にはそこに絶対的な王様もどきがいたりする。
バーテンダーはその名の通り酒場の見張り番だ。シェイカーを振るための人じゃない。
中には、なんだ職場と同じじゃないか!と思う人もいるかもしれない。けど絶対的に違う部分もある。一つはあくまでもお客側は「嗜み」を持ってその場にいること。店側は「嗜み」を売ることを利害関係にしている。そのため、嗜みというマナーが守れない客は簡単に出禁を言い渡されるときもある。世の中のバーを全部が全部知っているわけではないので包括した意見ではないけれど。ただ、そういうお客もたくさんみている。たった一人のお客がいればなりたつ店であれば別に、店として開ける必要なんかないからだ。開かれない店で十分。
「嗜みを売る」という言葉、どう解釈できるだろう。
逆に言えば嗜みが売れる相手であれば貴賤を問わない。少なくとも筆者はそう教育されてきた。酒を売ること・会話を売ること・一時のトキメキを売ること・非日常的な時間や空間を売ること、いろんなことを上げることができる。
確実なのは誰かがこだわったものを売るということだ。その空間の中でお客がいるから成り立つものでもある。
自分はそのこだわりに見合うだろうか。敷居はまず、そこにある。
冒頭に戻ろう。さて、銀座というフィクションを物語続けてきたこの銀座ウエストのこだわりに自分は見合っているか、まず敷居はそこだ。嗜むというのはその次だ。
可能だと思えるのなら誰にだって開かれた空間だ。誰も勝手に店を釣り上げたりしていない。だからこその「どなたでもご自由に」なのだ。
銀座ウエストさんには勝手に名前を出して申し訳ないなと思いながら長々と書き綴った今日の日記を終える。
店が誰に対してオープンかということではなく何に対してオープンなのかを土俵に上げてせめて議論して欲しいなと思った。
とてつもないお節介だ。失礼いたしました。
イミテーションゲーム
ようやく見ました。イミテーションゲーム。何というか、映画館で見逃した場合、じゃあレンタルを借りるかと言えばそうではなく(一週間の間にちゃんと見られるか不明。一本だけだと面倒くさい)、なかなかDVDを購入するタイプでもないのでHuluやネトフリは本当に有難い。出来ればTV本体に好みのDVDをダウンロード出来ればいいんだけど、そうした場合データが引き継げなかったらしょんぼりする。こういうシステムが既にあるのかどうかはわからないけれど。
アラン・チューリングという一人の男性に降りかかった不幸を映画かしたこのタイトル。不幸というのはいささか表現が欠ける。名誉毀損とでも言うべきなのだろうか。けれど、戦争に関わり数字で人の命を奪う側であったことに「名誉」という言葉が相応しいかは複雑だ。
大きな戦争を二年早く終息させることに成功した。しかしそこには確かな犠牲と意図的な犠牲があった。あの時代だったからしょうがないと言われるようになるのはきっとわたしもとうに死んだ先の未来なのだろう。例えば元寇で膨大な人が死んでしまったことや、戦国時代では今とは全く違う価値観で戦をしていたということをわたし達は痛みとは捉えていない。そう、なっていく。それが良い悪いという問題ではない。
今で言う人権という言葉が彼を保証しなかった様が戦禍だという認識を持たせる。元々は暗号解読をゲーム(数式でもなく、考古学のようなものでもない以上最も当てはまる例えに聞こえる)だとしてチューリングはブレッチリー・パークでエニグマの解読という名のマシン作りに臨むことになる。
話の内容は史実の通りなので、例え映画を見ていなくとも詳しい人もいるかと思う。それほどに凄絶な人生であり、終戦から59年経った2012年にようやく現エリザベス2世から恩赦を受けることができた。王室の判断と、実際の成果と時代が天秤にかけられた。
映画というよりもほぼ実話の話になってしまうのだけど、冒頭に言うようにこのチューリングもまた科学者や発明家の報われなさを体験しながら自殺してしまう。たった一つの仕事はやり遂げたけれど、当然ながら失った友人が戻ってくるわけでもなければ、幸せに余生を送ったわけでもない。
当時のソドミー法に裁かれ有罪と判決を受けて薬物治療を強制される。当時の技術により体への影響がどんなものか知る由もないけれど、相当苦しんだだろう。
先に名誉があったとしても物悲しい結末を迎える可能性はあるが、もとより名誉もない人間が使われる側になってしまうと塗りつぶされてしまうのだ。歴史は勝者の歴史とはよく言ったもので、あの場の勝者はチューリングじゃない。政府なのだ。そして政府は体面と別に用意していたものを全て切り落としていく。
大義、あまりにも大きすぎる正義という天秤にかけられて自分を守れる人間がどれだけいるだろうか。しかしこれを卑怯だと言うのは、難しい問題だ。あと二年戦争が続いたとしたら?功績のない人間はでは死ぬべきだったのかという問が返ってくるだけなのだ。
大きな技術に倫理がつくのは当然だ。けれど、平和な世界線で適用可能な倫理に価値がない場合や、その倫理が机上の空論になる場合がある。ここでアインシュタインやノーベルのことを語ってもしょうがないのだけど、この「クリストファー」だって状況が違えば十二分の凶器になり得る。
有名なチューリングテストへの答えに近づきつつある世界だ。
論文「COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE」の冒頭にある「機械は(人間的な)思考をするか?」という問い、また視点を変えて人間には扱えて機械には扱えない問題点(停止性問題)はグーグルの検索システムが最も近い答えだとされてきたらしい。しかしAIの世界は高速で進化し続けており、LINE AIのりんなのように学習して高性能な会話を行うことも出来るようになっている。
会話というのはコミュニケーションであり正解のないものだ。けれど、生得というわけではなく人間は見よう見まねから全てを始め、思考プロセスを育んでいく。このパターンや、ある種の命令系統が十分に「コミュニケーションが取れる個体」だと認識できるまでになる可能性はあるだろう。
また、将棋AIが中国・韓国の棋士を負かした話などもある。
ゲームのAIは株式会社スクウェア・エニックス テクノロジー推進部 三宅陽一郎など
がよく公演されているので聞きにいって欲しい。というよりもわたしも聞きたい。
三宅さんが手がけるゲームはファイナルファンタジーシリーズ15番目の作品なのだが、この中でパーティーメンバーとなる主人公以外にも学習AIが搭載されている。強化学習と呼ばれる「人間がプログラミングしなくてもAIが自立的に学習していくシステム」なんかは今までの認識の一歩先を言っている。これを三宅氏は
「最強のAIではなく、最高の接待プレイができるAIである」
と言っている。よりコミュニケーション能力が高いAIとして、ゲームの中とはいえ様々な工夫ができるAIが開発されているということだ。
「機械は(人間的な)思考をするか?」ということについて「そもそも思考とは何か」ということを定義しなければならなくなっている。今のところ人間として生まれているという前提以外はどういった思考回路であってもわたしたちは人間であるということを保証されている。
けれど対話も、コミュニケーション能力も、過去数万という記録のアーカイブすら搭載されたFSに出てくるようなAIが出来てしまえば「思考」はパターンであるという前提を覆せなくなり、人間として生まれなければ思考は同じとはならないのか?と問いを逆に投げかけられるかもしれない。
三宅さん曰く、生まれたてのAIはこの世に執着がないのでいろんなインプリンティングがされるそうだ。しかしこのプロセスが人間の赤ちゃんと何が違うのだろうか。
AIのための哲学ではなくAIが哲学を初めてしまえば、人間は答えを出せるのだろうか。
もはや、AIに「人間は機械的な思考をするか?」と万が一にも問いかけられた時には答えに窮するかもしれない。問いかけて答えを得るという方法をAIが取る可能性は十分ある。模倣・反芻を経て行われる解釈が例えパターンであっても思考と違うという証明は出来ないんじゃないだろうか。何せ人間の脳だって全て解明できているわけではないのだ。思考の宇宙VS宇宙に時代は突入している。
ちなみに三宅さんはあくまでも科学ではなく哲学の知見からというお話をされている。著作である『人工知能のための哲学塾』のために使われた資料や動画、選書などがHPにのっているのでぜひぜひ
映画の話を全くしていないけれど、実話から出たものなので許して欲しい。「クリストファー」のみてくれはもちろんわくわくしたし、何より後半でチューリングが自室にクリストファーを持ち込んでいるのには狂気を感じた。
この、失った友人を投影するというので一つ思い浮かんだ映画がある。夭折の作家伊藤計劃がプロットまで書き、後に円城塔が書き上げたあの「屍者の帝国」だ。
霊素を書き込んだ死者を労働力とする世界線なのだけど、これも友人の死者(言い得て妙な書き方)と一緒に旅をしながらバベッジの残した音機関と対決をする。
映画であえて変更してきた点が似ていただけなのだけど。この伊藤計劃の作品は好きで好きでひたすら周囲にオススメして生きているので興味が沸いたら読んで(見て)欲しい。
映画というよりもチューリングの人生においてどこが最高潮だったのかはわたしにはわからない。いや、最高潮などなかったのかもしれない。加算されていく問題について常に思考していた場合、「最高潮」という価値観は皆無だ。
目的は達成できても、目標までの道のりもまた長かった。エピローグで流されていく文字が、余計にその人生の凄惨さを物語っていた。
あの、全ての機密文書を燃やしながら流れるエピローグは映画らしい手法であり、示唆などではなく事実として伝える必要があった。偉業か、英雄か。正義か、罪か。
歴史を学ぶ上で考えるということは必須だ。アラン・チューリングは革命家に近かった。
話が紆余曲折してしまったけれど、良い映画だった。後々への示唆など一切なくただ事実と歴史を伝えるための映画だった。(実際の映像も使われていた)
功績による悲劇の一つとして知っていてもらいたいことであり、観て欲しい映画です。
二次創作、嗜んでいらっしゃいますか?
「あなたは何を嗜んでいらっしゃるのでしょう?」
「ええ、二次創作を少々……」
なんていうある種の前衛的な会話が行われるような場は……まあないだろう。どの時代でもコアな趣味ほど一般に理解される範疇の言葉に噛み砕かれて紹介される。
ところでこの嗜むという字を身近で使ったこと、問われたことはあるだろうか。相手方が良家のお見合いとかであればまだ聞かれる機会はあるのだろうか。(筆者には全くもって無縁の機会)
なんて冗談はさておき、では嗜むという字はどういう意味かというと
① 芸事などを習って身につける。
② 好んで親しむ。好んで熱心にする。
礼儀作法は人間関係を滑らかにする。社会生活の潤滑油である。(松下幸之助)
① 芸事などを習って身につける。
② 好んで親しむ。好んで熱心にする。
苦労する身は何いとわねど 苦労し甲斐のあるように
というやつだ。どうぞみなさま、よろしくお願いいたします。
余談ですが金銭の話を途中で意図的に省いたけれどそれは対価をもらうなということじゃありません。同人誌にはお金を落とすけど原作にはお金は払いたくない・けど継続して欲しいなんてもってのほかですよ!
仕事で生み出しているものにはお金が対価です。原作は!お仕事!お金が入らないお仕事を誰が続けられる/続けさせてくれるというのだろうか。
同人誌はそもそもが非営利であるから同人誌なのです。ただ、赤字を前提としては続けられない。だから赤字にならない程度の色がのせられている。それをお間違えなきよう。