銀座というフィクション

そういえば先日、銀座ウエストさんが店内で騒がれるお客様の利用に関して苦言を呈されていた。

以前バーテンダー業を営んでいた筆者としてもその痛切な思いは理解できる。伝統と、それを守るための節度をずっと保ってきたという自負はもはや歴史の産物だ。

戦後、当時の状況で価格千円のコースを出そうと思ったのは驚嘆に値するが、その後の洋菓子店及びカフェとしての経営を続けていらっしゃるということがすごい。

 

銀座というフィクションを作ってこられたのだ。敬意を表してこの言葉を遣わせて頂きたい。もちろん今もそうだが銀座という街は高級街としてのブランドを確率し守ってきた街だ。建物のみならず音楽やネオンといったものまでこだわってこられた先人が何人もいる街だ。

憧れの街、ファッションの先駆けを用意してきた街だ。そこでずっと店を構えてきたという歴史や思い入れ、そして矜持に「客の言うことが大事だろう」と食ってかかるのはお門違いじゃなかろうか。

長い年月保ってこられた矜持を客としても守らなければならない。店には当然「ほかのお客様が雰囲気を楽しむためのマナー」がある。しかしこれは風格のある店にもなると「店を守るマナー」にも繋がるのだ。

店がお客を選べば高慢だという意見はしかし、何の責任も取れない言葉なのだ。見ず知らずの人間が土足で踏み込んできて店を荒らし、結果的には今まで利用していてくれた紳士淑女を追い出してしまう。そうしてしまえばもはや伝統ある店ではなくなってしまう。

売り物は、物理的なものだけではない。空間を提供するということはそういうことなのだ。その空間を嗜むことができない人間に開かれる扉はない。

 

その店の雰囲気を誰もが楽しみたいという気持ちに対して店はご自由にとしか言えないだろう。けれど、今までその空間を嗜んできた人びと同様に「身だしなみを整え」「紳士淑女然として振舞うべき」だと思う。

伝統に払う敬意とはそういうものだ。飲食店だからないがしろにしていいわけじゃない。その飲食店が愛されてきた歴史に触れるのだ。それ相応のものを払うべきだ。

 

嗜めず楽しむ。これは、不躾な言葉を遣って申し訳ないが迷惑だ。

付加価値がどうやって積み重なってきたのかを知った上で存在するマナーは守るべきなのだ。教育であればできるマナーがどうしてお客となった瞬間できないのだろう。

 

今までの伝統を壊して、何が楽しいのだろう。

 

 

誰もが最初は新参者だ。それはしょうがないことだ。けれど、名高い場所にいくのであればそれに恥じない風体で、きちんと事前準備をしておくべきだ。ドレスコードのあるような店はなぜドレスコードを指定しているのかの説明はしない。

今までそうやってその店の空間を保ってきた人びとへ敬意と感謝を持ってそうしているからだ。決して不躾なことはしない。

お店にドレスコードがあるのかどうかは、事前に調べ前もって心がけておくべきだ。ドレスコードのある店というのは最初から敷居を高くすることでお客を選んでいるし、ドレスコードを代表するマナーを守れない人間を他の客が白い目で見る。

 

ほかのお客を害さない。それが、店が要求している最たるものなのだから。

 

先日も書いたけれど、嗜むという言葉は、趣味だから自由という意味ではない。

① 芸事などを習って身につける。
② 好んで親しむ。好んで熱心にする。
③ 自分のおこないに気をつける。つつしむ。
④ ふだんから心がけておく。用意しておく。 
⑤ きちんとした身なりをする。 

といった意味合いだ。心構えというのは武道などでもよく言われる。茶道華道にやたら手順や決まりが多いのはこのためだ。

内側に向けられている茶道のような場所か、外側に向けられているカフェかという違いだ。その見極めができない人は、その店の客からお呼びじゃないと言われて当然なのだ。

 

 

さて、ドレスコードのある店と言われてどんなものが思いつくだろう。

冒頭に少し触れたがバーというのも一つ敷居の高い存在だ。明確にドレスコードをかかれているような場所は少ないが、オーセンティックなどは暗黙の了解とされている節もある。(オーセンティックが上位かはまあ、さておき。これ話し出すと戦争になるので)

会員制のシガーバーなんて上司に連れて行ってもらったことはあるだろうか?こういった、一見さんお断りのような場所に連れて行かれ借りてきた猫のようになったことのある若者は、もう少ないのかもしれない。(何せ君たちを連れて行くようなおじさん世代もこういった場所に連れて行ってもらえてないかもしれないから)

 

マナーというのは厄介なものだなと思う。必要だろうかと思えるようなしきたりから、その時々で移ろいゆくものまで漠然としたままマナーと呼ばれるからだ。

小さいコミュニティで作られるものが多いため、そのコミュニティごとのものを学ばなければならない。要するに自分が常に王様にはならないということだ。そして時にはそこに絶対的な王様もどきがいたりする。

バーテンダーはその名の通り酒場の見張り番だ。シェイカーを振るための人じゃない。

 

中には、なんだ職場と同じじゃないか!と思う人もいるかもしれない。けど絶対的に違う部分もある。一つはあくまでもお客側は「嗜み」を持ってその場にいること。店側は「嗜み」を売ることを利害関係にしている。そのため、嗜みというマナーが守れない客は簡単に出禁を言い渡されるときもある。世の中のバーを全部が全部知っているわけではないので包括した意見ではないけれど。ただ、そういうお客もたくさんみている。たった一人のお客がいればなりたつ店であれば別に、店として開ける必要なんかないからだ。開かれない店で十分。

 

「嗜みを売る」という言葉、どう解釈できるだろう。

逆に言えば嗜みが売れる相手であれば貴賤を問わない。少なくとも筆者はそう教育されてきた。酒を売ること・会話を売ること・一時のトキメキを売ること・非日常的な時間や空間を売ること、いろんなことを上げることができる。

 

確実なのは誰かがこだわったものを売るということだ。その空間の中でお客がいるから成り立つものでもある。

自分はそのこだわりに見合うだろうか。敷居はまず、そこにある。

 

冒頭に戻ろう。さて、銀座というフィクションを物語続けてきたこの銀座ウエストのこだわりに自分は見合っているか、まず敷居はそこだ。嗜むというのはその次だ。

可能だと思えるのなら誰にだって開かれた空間だ。誰も勝手に店を釣り上げたりしていない。だからこその「どなたでもご自由に」なのだ。

 

銀座ウエストさんには勝手に名前を出して申し訳ないなと思いながら長々と書き綴った今日の日記を終える。

店が誰に対してオープンかということではなく何に対してオープンなのかを土俵に上げてせめて議論して欲しいなと思った。

 とてつもないお節介だ。失礼いたしました。