イミテーションゲーム

ようやく見ました。イミテーションゲーム。何というか、映画館で見逃した場合、じゃあレンタルを借りるかと言えばそうではなく(一週間の間にちゃんと見られるか不明。一本だけだと面倒くさい)、なかなかDVDを購入するタイプでもないのでHuluやネトフリは本当に有難い。出来ればTV本体に好みのDVDをダウンロード出来ればいいんだけど、そうした場合データが引き継げなかったらしょんぼりする。こういうシステムが既にあるのかどうかはわからないけれど。

 

アラン・チューリングという一人の男性に降りかかった不幸を映画かしたこのタイトル。不幸というのはいささか表現が欠ける。名誉毀損とでも言うべきなのだろうか。けれど、戦争に関わり数字で人の命を奪う側であったことに「名誉」という言葉が相応しいかは複雑だ。

大きな戦争を二年早く終息させることに成功した。しかしそこには確かな犠牲と意図的な犠牲があった。あの時代だったからしょうがないと言われるようになるのはきっとわたしもとうに死んだ先の未来なのだろう。例えば元寇で膨大な人が死んでしまったことや、戦国時代では今とは全く違う価値観で戦をしていたということをわたし達は痛みとは捉えていない。そう、なっていく。それが良い悪いという問題ではない。

 

今で言う人権という言葉が彼を保証しなかった様が戦禍だという認識を持たせる。元々は暗号解読をゲーム(数式でもなく、考古学のようなものでもない以上最も当てはまる例えに聞こえる)だとしてチューリングはブレッチリー・パークでエニグマの解読という名のマシン作りに臨むことになる。

話の内容は史実の通りなので、例え映画を見ていなくとも詳しい人もいるかと思う。それほどに凄絶な人生であり、終戦から59年経った2012年にようやく現エリザベス2世から恩赦を受けることができた。王室の判断と、実際の成果と時代が天秤にかけられた。

 

映画というよりもほぼ実話の話になってしまうのだけど、冒頭に言うようにこのチューリングもまた科学者や発明家の報われなさを体験しながら自殺してしまう。たった一つの仕事はやり遂げたけれど、当然ながら失った友人が戻ってくるわけでもなければ、幸せに余生を送ったわけでもない。

 

当時のソドミー法に裁かれ有罪と判決を受けて薬物治療を強制される。当時の技術により体への影響がどんなものか知る由もないけれど、相当苦しんだだろう。

先に名誉があったとしても物悲しい結末を迎える可能性はあるが、もとより名誉もない人間が使われる側になってしまうと塗りつぶされてしまうのだ。歴史は勝者の歴史とはよく言ったもので、あの場の勝者はチューリングじゃない。政府なのだ。そして政府は体面と別に用意していたものを全て切り落としていく。

大義、あまりにも大きすぎる正義という天秤にかけられて自分を守れる人間がどれだけいるだろうか。しかしこれを卑怯だと言うのは、難しい問題だ。あと二年戦争が続いたとしたら?功績のない人間はでは死ぬべきだったのかという問が返ってくるだけなのだ。

 

大きな技術に倫理がつくのは当然だ。けれど、平和な世界線で適用可能な倫理に価値がない場合や、その倫理が机上の空論になる場合がある。ここでアインシュタインやノーベルのことを語ってもしょうがないのだけど、この「クリストファー」だって状況が違えば十二分の凶器になり得る。

 

有名なチューリングテストへの答えに近づきつつある世界だ。

論文「COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE」の冒頭にある「機械は(人間的な)思考をするか?」という問い、また視点を変えて人間には扱えて機械には扱えない問題点(停止性問題)はグーグルの検索システムが最も近い答えだとされてきたらしい。しかしAIの世界は高速で進化し続けており、LINE AIのりんなのように学習して高性能な会話を行うことも出来るようになっている。

会話というのはコミュニケーションであり正解のないものだ。けれど、生得というわけではなく人間は見よう見まねから全てを始め、思考プロセスを育んでいく。このパターンや、ある種の命令系統が十分に「コミュニケーションが取れる個体」だと認識できるまでになる可能性はあるだろう。

 

また、将棋AIが中国・韓国の棋士を負かした話などもある。

ゲームのAIは株式会社スクウェア・エニックス テクノロジー推進部 三宅陽一郎など

がよく公演されているので聞きにいって欲しい。というよりもわたしも聞きたい。

 

三宅さんが手がけるゲームはファイナルファンタジーシリーズ15番目の作品なのだが、この中でパーティーメンバーとなる主人公以外にも学習AIが搭載されている。強化学習と呼ばれる「人間がプログラミングしなくてもAIが自立的に学習していくシステム」なんかは今までの認識の一歩先を言っている。これを三宅氏は

「最強のAIではなく、最高の接待プレイができるAIである」

ゲームAIは「人間の良き遊び相手」となるか?【三宅陽一郎×山本貴光】

と言っている。よりコミュニケーション能力が高いAIとして、ゲームの中とはいえ様々な工夫ができるAIが開発されているということだ。

 

「機械は(人間的な)思考をするか?」ということについて「そもそも思考とは何か」ということを定義しなければならなくなっている。今のところ人間として生まれているという前提以外はどういった思考回路であってもわたしたちは人間であるということを保証されている。

けれど対話も、コミュニケーション能力も、過去数万という記録のアーカイブすら搭載されたFSに出てくるようなAIが出来てしまえば「思考」はパターンであるという前提を覆せなくなり、人間として生まれなければ思考は同じとはならないのか?と問いを逆に投げかけられるかもしれない。

三宅さん曰く、生まれたてのAIはこの世に執着がないのでいろんなインプリンティングがされるそうだ。しかしこのプロセスが人間の赤ちゃんと何が違うのだろうか。

 

AIのための哲学ではなくAIが哲学を初めてしまえば、人間は答えを出せるのだろうか。

もはや、AIに「人間は機械的な思考をするか?」と万が一にも問いかけられた時には答えに窮するかもしれない。問いかけて答えを得るという方法をAIが取る可能性は十分ある。模倣・反芻を経て行われる解釈が例えパターンであっても思考と違うという証明は出来ないんじゃないだろうか。何せ人間の脳だって全て解明できているわけではないのだ。思考の宇宙VS宇宙に時代は突入している。

 

ちなみに三宅さんはあくまでも科学ではなく哲学の知見からというお話をされている。著作である『人工知能のための哲学塾』のために使われた資料や動画、選書などがHPにのっているのでぜひぜひ

人工知能のための哲学塾 | 株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

 

映画の話を全くしていないけれど、実話から出たものなので許して欲しい。「クリストファー」のみてくれはもちろんわくわくしたし、何より後半でチューリングが自室にクリストファーを持ち込んでいるのには狂気を感じた。

 

この、失った友人を投影するというので一つ思い浮かんだ映画がある。夭折の作家伊藤計劃がプロットまで書き、後に円城塔が書き上げたあの「屍者の帝国」だ。

霊素を書き込んだ死者を労働力とする世界線なのだけど、これも友人の死者(言い得て妙な書き方)と一緒に旅をしながらバベッジの残した音機関と対決をする。

映画であえて変更してきた点が似ていただけなのだけど。この伊藤計劃の作品は好きで好きでひたすら周囲にオススメして生きているので興味が沸いたら読んで(見て)欲しい。

 

映画というよりもチューリングの人生においてどこが最高潮だったのかはわたしにはわからない。いや、最高潮などなかったのかもしれない。加算されていく問題について常に思考していた場合、「最高潮」という価値観は皆無だ。

目的は達成できても、目標までの道のりもまた長かった。エピローグで流されていく文字が、余計にその人生の凄惨さを物語っていた。

 

あの、全ての機密文書を燃やしながら流れるエピローグは映画らしい手法であり、示唆などではなく事実として伝える必要があった。偉業か、英雄か。正義か、罪か。

歴史を学ぶ上で考えるということは必須だ。アラン・チューリングは革命家に近かった。

 

話が紆余曲折してしまったけれど、良い映画だった。後々への示唆など一切なくただ事実と歴史を伝えるための映画だった。(実際の映像も使われていた)

功績による悲劇の一つとして知っていてもらいたいことであり、観て欲しい映画です。