ダークナイト&ダークナイト・ライジング&バットマンビギニング

ようやくようやく観ました先月の暮れにだけど。ノーランのダークナイト。元々マーベルは観ていないながら後輩にオススメされ、伊藤計劃のブログで紹介されとしていた映画ダークナイト

 

ダークナイトの奇跡 - 伊藤計劃:第弐位相

リアル漫画映画としての「ダークナイト」 - 伊藤計劃:第弐位相

 

あの異相については散々見てきてはいたし、ハロウィンの仮装でも定番だったのでようやく画面に現れた!という謎の感激があった。いや、お前が早く観ておけばって話ではあるんですけど。

いつでも悪人がピエロの格好をしていると苦笑いと憂鬱が立ち込める。過去の悲愴な事件を引き合いに出せばいいというわけではないけど、あの出で立ちを善意の仮面としたジョン・ゲイシーを思い出すからだ。

そういえば初年度はシリアルキラー展に行ったなあ。

www.vanilla-gallery.com

 

ジョン・ゲイシーって誰だっけとなった方は一応wikiで。

ジョン・ゲイシー - Wikipedia

 

 

さて、かのジョン・ゲイシーもこのピエロ(道化)は「善人の仮面」だった。資産家でありチャリティーという文化の土壌で彼が行ってきた極悪非道を隠蔽するためだと言えばもちろんそのための仮面ではあったのだけど。それでもただの悪人ではなかった。善意は自身の行う悪行のための課程とされていた。その方が多く獲物を捕まえることができていたからだということは隠しようもない。

 

けれど、ダークナイトにおいてジョーカーは純粋な悪意として描かれる。純粋な悪意って本当に難しい。破綻したままで世の中にあり続けるというのがとても難しいからだ。

あの世界ではバットマンがいるから。

きっと世の中には見つからず悪人のまま天寿を全うする人間がいる。

それはそうかもしれない。悪人の話ね。けど、純粋に悪意のみだっていえるものを残していくのは簡単じゃないから。だからあの「仮装現実の中にある悪意」が生きている映画だった。理由なんて主軸以外はころころ変わる。どうだっていいからだ。それが「悪意」であることだけがジョーカーの求めていることだった。

 

口の傷についてジョーカーが二転三転するシーンがとても好きだ。そのことについては語りたいが経緯などはどうでもいいのだ。そこが「人と違い裂けたという理由があったこと」があの男にとって大切なのだ。真相などジョーカーすら必要としていない。これが「悪意」の象徴なのだなあと思ってみていた。

 

相手がバットマンだろうか正義だろうが関係ない。ジョーカーが対峙しているのは正義や正義のための何かじゃなくて「自身が退屈を抱えること」であり「悪意の連続性をいかに保てるか」という命題なのだ。

 

伊藤のブログでも言われているけれど、正義のヒーローを生み出し続けるのも楽ではない。その正義を続けられるだけの悪がいるから。悪がなければ正義のヒーローは成り立たない。誰かが格好いい正義のヒーローを求めるということがそも「悪を生むこと」でもあるのだ。

そして「悪意」を活かすための「正義」がこの映画には存在しなければならなかった。この逆転した順番のなんて面白いこと!悪意のために正義を考えなければならなかっただなんて。

 

悪意を潤沢にするために多くの正義が費やされた。けれどその純粋な悪意はなんの正義も求めてはいない。ただ、悪意と名前をつけた箱を満たすためにたくさんのものが投資された。映画一本の金額よりも、その投げ込まれ消費された正義の量のことを考えてしまう。

 

けれどどれだけの量の正義を抱えようとも「ただ退屈を紛らわせたいだけの悪意」は永遠に満たされることはない。ひたすらに喰われ喉元を過ぎ価値なきものとして扱われるだけなのだどんな善意も正義も公正もジョーカーを満たしはしない。

 

だがしかし、正義や秩序があるからこそジョーカーは楽しいのだ。もしも正義も秩序もなく「特別ではない悪」で満たされた世界だったら。きっとジョーカーはその世界にすぐに飽きて死んでしまうかもしれない。立ち向かう正義こそ食い物になる。

 

出尽くした感想の上、伊藤の感想をなぞるものになったのはもう仕方がないかなと思って欲しい。

けれどこの相反する状態、拮抗したバランスが保てるということが創作の醍醐味なのだ。ユートピアが同時にディストピアの反面を持ってしまうことに批判もせずに手を叩いて笑っていられる瞬間は、創作相手だから許される。

 

 

ユング心理学に永遠の少年という元型がある。

ユングが言う「永遠の少年」とは?

 

大人になることを拒否しながらも大言壮語であったり、飼い慣らせていない自尊心を持っている大人のこと。

彼らはどこかのタイミングでよりよい飛翔を目指すのだが彼らの本質の持つ無為により落下と死を永遠に繰り返す。

彼らは常に母親の母体と自分を成人手前で何度も行き来する。絶対的な聖地のことを母と呼ぶのだけど、そこから離れられないまま大人になるというわけだ。永遠の近親相姦とも呼ばれている。

宿り木と呼ぶこともある。神話におけるロキは永遠の少年の元となった神であるバルデルにイタズラをするためにこの宿り木を唆したホズルという神に投げさせバルデルを殺してしまう。そしてロキは多くの神々に追われることとなるわけだ。

 

ちょっとまだソーの物語を見ていないのでその辺りがマーベルのソーに関連するのかは知らないのだけど。ジョーカーはこの永遠の少年として描かれている。

そして持ち得る悪意のために空想世界になどいかず、バッドマンがいるあの世界でジョーカーは生きている。自分が幸福であるために生きるための方法で世界を破壊しているのだ。

飛び続けるためにただ立ち向かってくるものだけを欲している。その他の理由を見てしまえばいつかその羽は焼かれるかもしれない。そのための純粋な悪意なのだ。何者をも必要としない、退屈を満たすためだけの悪意は磨かれていく。

 

世界というよりも社会に立ち向かっているジョーカーはけれど、社会が悪に満ちた瞬間に自身が死んでしまうという矛盾の中で幸福に生きようとする。

そして最大幸福のために世界はあろうとするからこそ、悪意のみに世界は染まらないということに感謝と怒りを感じながら生きている。

 

悪意を活かすということから正義を考えるということは希でいい経験だった。ありがとうダークナイト

 

 

ちなみにユング心理学河合隼雄先生の本を読むのが一番わかりやすい。個人的にオススメするのはこれ。

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

あ、そしてダークナイトを観たあとにライジングとバットマンビギニングを観ました。せっかくの機会なので。

ライジングは特別語ることはないからいいかなあ。あんまり覚えてないんだけど。いや、映像やマーベル的に隠されているものは多かったかもしれないけれど、正直ダークナイトを観た後で特別言いたいことは出てこなかった。

アン・ハサウェイがかっこかわいいからそこだけはオススメです。大好きアン・ハサウェイ

 

バットマンはビギニングの方しか観ていないのでバートン映画との比較とかはなんにもできないし、特別いえることはないかもしれない。

複雑なことにあそこまで現実的に描かれた現代人からなるバットマンだけど、その過去や経緯もまたジョーカーの前では無為なものになる。必要善なのだけど可哀想だなあとすら感じてしまう。

報復の自覚により報われないヒーロー。「正義のヒーロー」に付随してくる万能感を崩したかったと言われればそれまでかもしれない。関連した記事の一つも読まず原作も読まずだけど、悪意の前に引きずり出されるにしては陳腐な正義になってしまう葛藤は実に可哀想な代物だなあ。

 

とにもかくにも救いのないバットマンという映画三作だった。一般的な幸福の範疇をずれれば人はうまいこと幸せにはならない。幸せが全てじゃないとしても、例えば生まれる家は選べない。グッドバッドブックならぬグット(ド)バッドマン。

 

個人的な想像としてはハンニバル・レクターは喝采をおくらない。無辜の正義のヒーローの方が血なまぐさい英雄と対比しやすい。

悪意にすら報われない正義の虚しいこと虚しいこと。

 

あ、超次元とめちゃくちゃヒーローが出てくるアニメでオススメがあります。血界戦線っていうんですけど。

kekkaisensen.com

 

バットマンみながらずっとタイバニと血界を思い浮かべてました。バットマンがスティーブンだと思うとやるせなさもあるけどこう、秘密結社だからさ。クズも高潔もめぐりめぐっていっそはちゃめちゃな方が楽しい!くらいで見れますオススメです。突然ですけど。

明るくクズにNYを崩していこう。バットマンのやるせなさを払拭するのにめちゃくちゃ見返したくなった。