ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

誰の視点から語られるのかというのは舞台装置の一つだ。ファンタジーであれば少年少女、世界と戦うのであれば青年。ジェンダーの観点から女性主人公をヒーローにしたり、異形との恋愛のため美しさにこだわらない登場人物の起用すらある時代だ。顔と設定は表裏一体なわけだけど、イメージからぶれないというのはいつの時代でも必要。

 

この映画の主人公は、聡明な顔をしている少年だった。けれど、どこか違和感がある。その違和感は日常の中にある小道具で引き出される。かき鳴らされるタンバリン、言葉数の多すぎるセリフ回し、数字への執着。ああそうかと思った時には、「何故、死を隠すのか」という糾弾に変わる。

 

少年が窮地に陥っている。それはシナリオとしては珍しいものではない。けれどあんなにも、多すぎるセリフに心を締め付けられたのは初めてだった。苛烈な責め苦と激情、どうして裏切ったのかと母親を責める少年は同時に引き合いに出される「正しさ」とも戦っている。

板挟みになっているあのシーンで泣きそうになってしまった。不安や苦しさを、どうして正しさだけで導かないのかと問いただす少年。異常にも思えるのかもしれないし、当然の世界なのかもしれない。

 

けれど、本当に。「正しさを受け入れるために苦しむ」という人びとは存在するのだ。冗談やすり替えた話題では納得できない。絶対的なものがあるのに、それを情緒に屈服させる意味がわからない。けれど、心は苦しいと、悲しいと言っている。その矛盾を両立させることができない苦しさがある。生きづらいだろうと思う。彼は、子どもの視点で言っているわけとも、世の中を知らないから言えるというわけとも違う。「正しさ」以外受け入れられないからこそ「正しさ」と戦っている。だから途中で気持ちに寄り添おうとした間借り人は去っていってしまった。一度決めた約束事を違えることを少年はまた糾弾する。

 

優しさを食い込ませることが難しい。けれど、優しさでなければ守れない。正しさは優しさではないし、正しさだけでも優しさだけでも誰かを守ることはできない。たった一つの答えがあればもっと明確で簡単で、楽に生きていけるかもしれないけどそうなることはきっとないだろう。だから、多様性への諦めを人は教えられなければならない。少し話がずれたけど、この諦めは正しいものじゃないからこの少年が受け入れるのは、難しい。

 

9.11についてあれこれ語るほどのものは持ち合わせていない。ただあれがテロで、戦争が始まった。当初小学生だった筆者にとってはTVの中で起きている事実は遠い世界の、理解の範疇を超えた出来事にしか感じられなかった。事実、知らない世界で起こっていることでしかなかった。

 

12歳の頃の自分の素直な感想だ。義憤で責められていたとしても結局何にも言えなかっただろう程度。ただ、主人公の少年があの隔絶を経ても訪れる日常がある。けれど世界は変わってしまったらしい。政治や武力行使なんかはあの映画には出てこない。当然だ。だって子供にとっては自分がまだ世界の中心だから。世界に何が起こっていようとも外の世界の話になってしまう。

 

 ゼロ年代と言われる作品のいくつかはこの9.11を契機としている。テロが大々的に世界に登場したのだから当然のようにも思えるが、これだけを特別とするのは難しい。伊藤計劃が生前注意を促していたことを思い出す。どれかだけが特別ではない。今も自分たちが見ていなければ知らないものとして終わる情勢が多くあるのだ。9.11は衝撃として人びとにそれを見せただけだ。ツインタワーが崩落しなくとも、同じ意味合いの出来事は世界で未だに起きている。

 

けれど、この映画はそういった世界情勢のためのものだとは言い難い。実際、多くの人にとっては突然奪われたことによる悲しみややるせなさが去来した出来事だったと思う。隣人の損失はあったけれど、数字による衝撃、明確になった戦争まではこの映画では描かれなかった。あくまでも少年から見た、少年の中に存在する世界こそが戦いぬかねばならない舞台だったからだ。

「情感で隠されたものと正しさ」との間で戦うということ。少年がアスペルガー症候群であるということ。その視点が共感を呼ぶものであった場合、今ある迫害の認識を人びとはどう受け止めるのだろう。感動したというのなら何に感動したというのだろう。そんな訴えを感じ取った。

隣人を失う衝撃はどんな言葉に変えても、誰が言おうとも、同じ価値なのだと言われたような気もした。

 

その、言葉なき喚起を演技してみせたこの少年は本当に何者だったんだろう。あまり役者の好き好きがないので語れる情報がないけれど。

こどもが自然と抱えてしまう矛盾を意図するというのは難易度の高いことだと思っている。その矛盾を言葉と表情でそれぞれ伝えてくる彼の演技にずっと魅入っていた。何よりとてもしんどかった。

 

覚えているのはどうしようもなくなった怒りを発露させているシーンばかりだ。母の糾弾、自分がやっている答えは見つかるのかと間借り人に尋ねるシーン。父親の留守番電話を聞けと迫るシーン。誰かにぶつけることによってずっとオスカーは傷ついている。その傷心がひたすらに伝わってくる。

 

橋を一人で渡るのが怖かったこと。間借り人が右手にNOを、左手にYESを用意していたこと。

最後のノートのシーン、父親がビルから落ちるあのシーンを入れなければ。あのシーンを隠すことによる矛盾を受け入れられない一貫した態度。

相手のことなど考えずただ暴力的に真っ直ぐに向かってくることへの恐怖を、この映画は実に巧みに描いている。

 

見ていて、こんなに疲れた映画は久しぶりだった。辛くて、やるせなくて、けれど自分は矛盾を許せる世界で生きていける気質であることへの幸福すら感じた。

世の中にはそうつくられている人間がたくさんいるのだ。脳の違いを人は個性と呼べるのか。呼べないというのなら何が違うというのか。ずっと疑問が頭を占めるけれど答えは出ない。

 

個人的にはようやく観た映画だったけれど、9.11による啓蒙というよりも「矛盾を抱えられない人びとの苦悩」の映画としてぜひ。ああもうほんと、しんどかった。一週間経ったけれどまだちょっと、気落ちしてる。