おっさんずラブが流行ってもゲイが流行るわけじゃない

案の定ツイッターおっさんずラブの視聴者から「ゲイの人名乗り出てカモン!」という発言があがり炎上してるのを見かけた。流行りに水を差すようで悪いけど、「現実のゲイのみなさんは誰かの消耗品の作品じゃないよ」っていう話をこんこんとするよ。

 

地上波でBLドラマがついに流されることについては純粋にすげー!と思う。BLドラマって昔むかしからあるけど市場が大きいものではなかったので有難いなあと思う。それについては純粋にすごい、と有難いを感じる。いろんな作品が人の前に出されるきっかけをつくった人には常に敬意を払いたいという個人的なありがたさだ。

 

わたしはまだこのドラマを見てないのだけど、noteとかにも企画になっていていかに世の中の人が注目していたか、また注目を引っ張るかが伝わってくる。ただ、たーだあくまでもこれは商材としてのBLだ。あくまでも、BLなのだ。BLが地上波の力を借りて共有されただけであってゲイの人のあれこれに干渉していいって話に繋がってはいないんだ。

世に言う腐女子が好きだよー!っていうBLという名前の嗜好品が放送されたんだ。がねほりんぱほりんとかに取り上げてもらってちょろっと認知されてきたから出来た商材だ。けど、世の中が役者を使った映像でBLの楽しみを共有しているからといって、ゲイが好きな人が増えたわけじゃない。ゲイが流行るわけじゃない。そもそも、創作物のBLと、実際のゲイの人たちの間には大きな壁が存在する。

 

現実とは違う。おっさんずラブはあくまでも嗜好品であり、消耗品の創作だ。だがしかし現実のLGBTの人として自分の恋愛は誰かの消耗品のためにあるわけでもなければ嗜好品のためにあるわけではない。

その区分けがないまま世の中に受け入れられているものだ思われてしまうのは、まだ困る。まだっていうのが肝心で、今転換期だなぁって思うからそのうちにはいろんなハードルもなくなっていくだろうと思う。

 

どちらかと言えば現実ではLGBTは忌避されているのだ。カムアウトすればよくやったと賞賛される。まだ、特別だからだ。誰かが言うように早く誰が誰を愛そうとも普通の世界がくればいいと本当に思う。

レズの人たちよりもゲイの人たちの方が風当たりはきついんじゃないかなとも思う。(よくわかんねえなっていう人はオカマバーとか行って聞いてみよう。きっと不用意なことは言われないと思う。けどその不用意なことを言わないという事そのものが現状の限界だ)

 

これをツイートした人に悪気はなかったんだと思う。元々BLが好きだったのか、おっさんずラブを見てBLを好きになったのかはわからないけど。でもね、悪気がなく「ゲイの人、わたしは受け入れるからカムアウトしてよ!」っていうのは理解がない証拠になってしまった。そして当然怒らせてしまった。

 

まだまだ普通じゃないんだ、同性愛って。先日北海道で同性愛パートナーへの条例をつくろうとしたら苦情が随分ときたという話をみかけた。その苦情の数に「これだけの差別を受けているのだ」と受け取ってくれたことは本当に有難いことだと思う。数にすれば男女が恋愛をして結婚するよりも遥かに受け入れられないとしている人が多い。

 

ああやって誰もが見れるテレビで大々的に取り上げられているとあたかも日本中の人がウェルカムしているように思えるかも知れない。けど、興味がない人や嫌悪感のある人はそもそもあのドラマを観ようなんて思わないだろう。「結局ゲイのドラマ」または「BL」で終わってしまうのだ。

 

あのドラマの視聴者は、「ゲイの人」じゃなくて「BLが好きな人」だったはず。あのドラマは、「ゲイの人のため」ではなくて「BLが好きな人のため」にまだ、なっている。

そりゃもちろんああいった作品から何か奇跡が起きてものすごく理解していこうぜ!っていう流れができるかもしれない。未来はわからないから。けど現状は、そういうものだと思って頂きたい。

 

その上、本当のゲイの人たちに含まれる苦労や差別や忌避のされかたを知らずに「名乗り出て下さい」は正直恐れ入る。彼らの苦労や辛さは、BLが好きな人たちへ捧げる消耗品でも嗜好品でもない。

 

あくまでも創作だからいいんだ。あのドラマは。創作っていうのは前提として「消耗品」であり「嗜好品」だ。消費されることに意味が有る。

BLは、消耗品なのだ。嗜好品というのは好き好きがあるからこそ批判もされる。自由でいいとはこういうことだ。けれど、現実のLGBTの認知はまだ低い(からこんな発言が出たわけだし)

 

BLのシチュエーションで、「でも男同士は結婚できない」や「男が男を好きだと言って、下の関係に戻れなくなるのは嫌だ!」な王道は、現実ではその人の生涯に関わることなのだ。引きずり出そうなんて許されることじゃない。あんまり言うことじゃないんだけど、腐女子やってる=LGBTへの理解があるでもないはずなんだ。許容はあるかもしれないけれど。どのシチュエーションが好きかは自由でいいと思うんだけど、それと「本当にそのシチュエーションで苦しんだことがある人の思い」は別物だ。

 

LGBTの創作で利益を出すことと、(BLやGLも含むよ)LGBTの人を理解することは違う土俵だ。

それだけは、わきまえて頂きたい。

 

LGBTの窮状は、noteやはてななどいろんな媒体で書いている人がいるから調べてくれればって思う。わたしは自分のことしか語れないから、「性別のないわたしは同性愛か、異性愛か」この記事を貼っておく。わたしもトランスジェンダーの一人としてああやっぱりそうなったかと思ってしまったから。常にフィクションの価値はノンフィクションと重なるわけじゃないんだ。

 

成功体験とかはぜひに賞賛して欲しい。出来れば一つの愛の形として。誰かが誰かを会いしたその成功談として、拍手を頂ければそれだけで十分だと思うから。

 

歴史の話で言えば、映画『イヴ・サンローラン』や『イミテーションゲーム』といったノンフィクションとされるものを観てもらえたらなって思う。名前を知られた偉人でさえ、同性愛という「犯罪」で苦しみの中死んでいった過去があり、まだその世界線は継続している。

 

わたしはゲイを代表して言えるわけでもないし、残念ながら性別のつくりから自分の恋愛は同性愛にも異性愛にもなれないと思ってる。けど、創作物と混同されるのは嫌だなあという思いがあったからあれこれと言わせてもらいました。

 

ところでここまで書いといてなんだけど。内側から批判あってどんどん話するからなるべく受け入れてってよー!ってなるのもそれはそれで期待する。おっさんずラブが入り口になって見事な出口ができるのもまた一つの希望なんだ。

内側に向いてるうちって悲しみやら過去やらが大事なんだけど。いつだって前にしか世界は広がらないからそのうち前に出る人と後ろ向きに執着する人でも違いがでるんだろう。いつだって転換期はそんな感じだ。普通になる瞬間ってそんなもんだよ。いつだって革命は内側からの批判だ。

 

 

余談その一。筆者が今、LGBTで創作してるじゃないかよーという人へ。

創作がなにかの窓口になるのも確かだから。やるせなさや憤りがあるから書いてる。LGBTによる創作をするなとか、食物にするなとかいうことじゃないんだ。食物にしていることと理解は別物だからこそ、違うということへの理解が欲しいなと思って書いただけ。LGBTってまとめてもあくまでもひとりひとりの人生だから語れることなんて自分のことだけなんだ。

 

余談その二。毒舌ネットマナーの時代って大事だったなあ。

というよりも調べたらまだあって感動した!どうも、個人サイト時代の人間です。SNSやフリーなピクシブとかが出てきたから二次創作=自由みたいな風潮が随分と出てきたなあと思うしとても危機感を感じる。日の目を浴びないのが二次創作っていう感覚がないままだからこそ、こういった形での現実への介入があったんだろうなとも思う。登竜門がないって怖いなあ。

二次創作や同人って嗜むものなんですよ。それについては前回「二次創作、嗜んでいらっしゃいますか?」であれこれ書いたのでよければ。