シェイプオブウォーター①

シェイプオブウォーターのメモ。あとでもうちょっと長ったらしいのをあげるけど、これは当時衝動に駆られてのメモ。最近も観てるけど書けてない。

 

シェイプオブウォーター。あれほど作り手の怒りと、見る側の傲慢や欺瞞を映し出している映画はないなと思ったほど鮮烈でした。差別や偏見・美しさとは人間の境地か?・怒りのモチーフへの考察あれこれ。あえて露骨に出されていたよ。

監督の怒りを表現する方法として、嫌いな差別と偏見をあえて与えられたのだろうと思った。 

まずは登場してくる人物にべったべたなステレオタイプがあったこと。登場人物に見た目からも判断できるステレオタイプがあることで、その人の過去や未来を連想させることができる。でもそこには全て"偏見や差別"がある。この監督はまずそれを、第二次世界大戦中を匂わせていたとしても使ってきた。 


これは個人的にはかなり意外だった。でも、ストレートなステレオタイプを使うことでこの差別や偏見は事実であり、今まさにその瞬間お前が行なっていることだ、自覚しとけよって言われてる感じだった。 

まずは主人公のイライザ。顔の醜美が絶妙な役者さん。その醜美を敢えて使っているのだなと思ったのは、彼女が繰り返しの毎日を演じる中で、バスの車窓を眺めながら口元を少し隠したシーン。 
この、年齢による劣化は正しくこの女性の劣等感を表している。ほうれい線に表れる年齢を隠せば美人、そのための小さなワンカット。 
もう彼女には老いていくことへの諦めがあった。 

毎朝の自慰のルーティーンも、誰かに満たしてもらうことができないという欲求の表れでもある。もう若さによる恋も難しい、それらをせめて快楽や背徳感で満たそう、それだけ。 

それと、この唖者であるという設定。"聞こえるけど喋れない"の方が差別は酷い。そして、唖者である以上恐らく海外においてレイプされた経験があるのではという推測、性的倒錯によって自己満足を得ていたのではないかなという歪曲した愛情を示唆させた。性的に満たされる欲求にバイヤスがある人ほど、愛とsexが重なるんだけどその体現という感じだったなぁ。 


イライザの友人ゼルダ。黒人女性という典型的な差別を描ける。これをチープだというのはとてもじゃないけど道徳心のない。 
彼女は途中で、自分の名前に入っている"D"、デリダを必要以上に貶される。そこで黙る彼女はイライザと違い言葉を持っていることによって、"望まれた無知の黒人"を演じる。わからない言語ではなく共通の言葉を彼女が話すことで生まれる嘲り。そして、もしかしたら彼女が"裏切るのではないか?どうせ黒人だ"というこの時代への偏見も与えようとしてた。けれど、あの速さの手話を解読できるということは、元は看護師とかそういう役職だったのでは?と思う。 
看護師という職が、神様へ祈る職業が、ゼルダの性にあっていたかはわからないけれど。 


警官であるストリックランド。白人、強靭な肉体、傲慢による渇望、トップになれない小物の典型例。誰かを貶めることで満たされない承認欲求を擬似的に満たすタイプ。だからこそ功績に執着する。この物語の結末は実に陳腐な人間の執着に委ねられるぞ、と推測できるほど。 
そしてあの時代特有の大量の精神安定剤と、その擬似モデルの飴。口腔に抱えたコンプレックスは最も幼少の、ただ母に甘やかされた頃を夢見ていることを示唆する。何を手に入れても満足できない、人のものや、自分にないものを欲しがる。わたしは頑張っているのに、というのを嘲笑させ後味悪くさせるためのステレオタイプ。 
薬と銃は近しいモチーフだ。どちらも人が生み出したもので、どちらも守る事と殺す事の両義がある。 

イライザの同居人であるジャイルズ。 
時代に取り残されて、イライザの中で"父と恋人"という立ち位置。恋人なのかな?って思って見てたからまだ真偽のほどはわかってないけど。イライザとしてはジャイルズに愛は向けているけど、存在も曖昧な父というものと同じになっているため友人にもならず、ジャイルズの傍にきたからこそイライザがエディプスコンプレックスを抱いたという役回りのような存在。となれば、この時代の遅れ人もイライザを裏切らない立ち位置なのだろうと思った。幼少期の甘美への執着と、老獪への憧れを描かれる人。そのはずなのにジャイルズもまた老いによる"かわいそう"という感覚を伝えるために置かれた駒のようだった。 

博士。 
戦争時代における研究者とは、いわば人殺しである。アインシュタインのようにマンハッタン計画にまで影響力を与える反戦主義は珍しく良心があればほとんどが自分のやりたいこととそれによって人が死ぬ事を天秤にかけられる。不要な研究など許されない。ダブルバインドという意味ではストリックランドとは対に感じたけれどあくまでも研究者という人間の業がステレオタイプとしての彼の役目だった。破綻する意見などもそれは良心や善性のためではなくあくまでも研究のためというところが垣間見えるように作られるだろう。そして研究者や数学者は低い価値や地位として描かれるだろう。そういった推測まで抱かせた。 

HE"不思議な生き物" 
その人の性質によって呼ばれ方が変わるのは、"見た目が人外である"という一点からのみ。あれが人と全く同じ形であれ、ミノタウルスであれ構わない。そんな何かを描かれている。同じ人間ではないということが大事だったわけで、heが何であるかは本当の意味では関係ない、何故ならば人ならざるものだからという理論が見えた。同じ人であれば差別という言葉が使えるけれど、見た目が違えば同じ行為を差別だと断じる人はぐっと少なくなる。 
あれはあなたには何に見えるのか?を画面越しでずっと問われていた。バケモノか?クリーチャーか?何か一個体か? 

そしてこの不思議な生き物は言葉を介すとされたけれど、この言葉の意味通りに受け取り、手話なんてわかるかよーって思うのであれば随分と傲慢だ。 
神にとって言葉は神自身が分断したものである。その全てが滞りなく理解できるのは当然であり、だからこそ神なのだということなのだろうと受け取って見ていた。 
もしも肉体のある神を知らず得たならというifの物語。美しくない異形は、ただ人間がそう思うだけで何の価値も、差別足り得る理由もない。そのための登場人物だった。

 

シェイプオブウォーターの結末は最初から予想されたものであったけれど、そうたらしめているのが自分たちであるという認識は持った方がいい。他人事の感想など求められていない。

ストーリーは個人的にはずっと正論でお叱りを受けている気分で見てました。というか始まりからひやひやしてたせいでずっと落ち着かなかった。 

イライザの本当は性的倒錯に溺れたいという欲求が、美しくないものだと言うのは随分身勝手。あれが、美しく、若く描かれていたならほとんどの男性が嫌悪することはない。また、天上の人ということて並の女性は受け入れるだろう。でもそれは監督はやらないとしていたことだから、人の基準の醜さを当てこまれていた。 
老化、傷、貧相な胸、判断材料ばっかりを見せつける。ずっとその手法を画面のどこかに使われている。 

また、からだのどこかに障害があるということは勝手な神聖を齎す。目に見えた理解できない苦労を感じて身勝手に同情する。ゼルダが看護師かなって思ったのはそういった差別やマウントが全く見られなかったこともある。普通でない人として扱うことはその人の尊厳を歪めているのだけど、大多数は気付かずやっていること。 

この、気付かずにやっているという普遍性が監督にとって憎かったんだと思う。それの何が悪い?だってかわいそうじゃないか、という五体満足による傲慢がね。安直な示唆ではなく"怒り"を根本とした表現だと感じたのはそれか理由。 


話が通じるけれど、返すときの拙さに人はマウントをとったという幻想を抱かせる。見事にそれを表現されたストリックランドはそれによって落ちぶれていく様の価値を突きつけられてもいる。 


heの見方はそれぞれの精神性を表しているのだけど、一番最初に観客として脅かされ、自分と同じだという感想を抱けなければ観客それぞれに残っているのは傲慢や欺瞞の感想だ。 
一瞬でも怯えたなら、無様なストリックランド側(排他)かゼルダ(見て見ぬ振り)のどちらかなのだと。あの結末に悲しいや素晴らしい、美しいものといった判断を下す価値はお前にはないのだと言っているようだった。 

heが何者であるかは関係なく、孤独で、一個体しかなく、理解の及ばない別々の存在として、"同じだ"と思えた理由はイライザ自身が作中でジャイルズに憤慨するシーンで伝えている。 
イライザはわたしを証明するものと、heを証明するものが同じであるなら何が違うのかと問いかける。観念的で哲学的なやりとり。 

しかしこれは、戦争の只中で時代に取り残され観念世界で生きてきたジャイルズだからこそ受け入れられた。芸術家のジャイルズにとっては世界は被写体である。これもまた立場としては研究者となんらかわらない。ただ、イライザが突きつけたことによってイライザというフィルターがあったということがジャイルズの救いだった。 

存在がモチーフであると受け取れることは大切で、あくまでもそれは人間による価値しかないのだということを伝えてくる。繰り返しだけど。 
登場人物の一挙一動がモチーフを壊さない。それこそが繰り返される毎日の理由でもある。恐ろしいほどに徹底されていた。 

heが猫を食べた時にジャイルズがそれを"習性だ"というシーンがある。あれは皮肉でもなんでもなくて。イライザが反応を示さなかったように、人間の当たり前と同じことをしただけというシーンだった。飼っている猫だからかわいそうって思うの?普段肉を食べてるくせに?怪物が殺したから?道徳や倫理に価値をおくのは人間が凶暴だからだろう? 
常に、常に、見て見ぬ振りをしてきたものをあげようとする監督が垣間見える。 


恋は脳の思い込みってやつなんだけど、今回それは"その他大勢の枠に入らないあぶれ者"によって作られる。これも典型的。 
"違うことによって自分と同じだと思うことにも価値はない。" 
自分以外は決して自分にはならないから。だから、あの描き方からは一緒というもう一段階が必要となるか、別離かがあることが示唆しれている。 

伏線なのか舞台装置なのかが多い作品だなぁって。でも描かれる全てにも、"同時に価値のないもの"や"ものの全ては特別ではない"という意味合いが込められている。 

悪役は誰だっただろう。イライザとheに銃を向けたストリックランド? 
本当だろうか?ストリックランドは未知なるものにひたすら刃を向けた勇敢な戦士だったのでは?彼が自己尊厳に突き動かされてなければheは兵器になっていたのでは?戦争の中で正しい人間はいたのか?今君達は無関係だから、誰かを悪役にしたてて悲しい結末の物語だったという倒錯に浸っているだけでは? 
終盤には違う正論をまたぶつけられる。 

イライザが撃たれることが悲しかった?けれど貴方は本当に、人間の肉を簡単に抉れる力を持つクリーチャーを同じように愛せるの?イライザが愛しているheだから愛せるの?随分と身勝手な理由だ。そんな風にも聞こえてくる。 

終盤まで監督の怒りが途切れることはない。戦争を、兵器を、ホロコーストを、きっかけを作った未来を動かす科学者たちを、今を動かす権力者を、過去を美化して見て見ぬ振りをする老人を、戦場になっていないからとたんたんとした毎日を過ごす労働者を、全てを憎んで問いかけられている。 

そして、画面越しにお前はどうなんだ。誰に移入するんだ。その感情は無知であり無垢などではないだろうとひたすらに美しい画面の中から問いかけられている。 

そういう意味で良い作品だった。とても衝撃があった鮮烈だった。美しい、甘美なものなど最初から描かないと決めていた監督にとって、悲しい結末だったという感想ほどつまらないものはないだろう。 

何を考え、自分を何と定義しているのか。その問いかけを2時間、美しい画面とともに行なっている。それだけの映画だった。

 

シェイプオブウォーターはそもそも、人間にとっての幸福などなんの価値もないことだ、アイデンティティも違う、比類ない孤独を受け入れろというステレオタイプの作品だった。だから酷似作品とかいう批判もまた価値のないものになる。

美しいものとして提供されるのを望んでいる人々へ対する怒り。 
美しいと思えるものを提供されなければ美しさを見出すことのできない程度への怒り 
感受性の乏しさへの怒り。価値観を与える側だと思っている傲慢さがあるくせ、加害者だと自分のことはカケラも思っていないような人間性への怒り 

あの作品を見てもなお美しさや結末を語ろうとする基準や潔癖への怒り 

終始それらを拾い上げては問いかけている監督は、よく現代に生きているなと思ったくらい。人魚のイメージは昔見た映像から得たものらしいけれど、そこに恋があることと美女と野獣の結末を賞賛する人々への嫌悪感は何かきっかけがなければ繋がらない。 

何故醜いままでは愛せないのか。醜いものを迫害した綺麗さだけで、わたしも綺麗だとのたまう人間たちが許せないのだと言う思いが伝わってくる。 

ふと、最後のシーンで苦しみながら童話を書いていたアンデルセンを思い出した。宮沢賢治だってそうだけど、彼らは子供向けと謳われる作品を書いているふりをした作家たちだ。そこには残酷さや冷徹な視点も組み込んでいるのに、きたなさを描くからこそそこから美しいものを拾う人々の習性を理解している。なにかを突きつけようとする人たちは"皮肉"になるものを必ず組み込む。 

後味の悪さは、常に自らが持ってくるものである。 

どうして、人ではないものの孤独を描かれていたのに、人並みのカタチの幸せを幸福とし、あの結末を不幸と呼べるのだろう。 
人ならざるものであるのに、自分たちの枠を押し付けて勝手に悲哀だとできるのはどうしてなんだろう。 
heが神であれクリーチャーであれ、そもそも共存というのがどれだけ難しいのかを便利で平和ボケした人々は忘れているのだと監督は最後示したかったのではないかなと思う。 
ペットという共存で満足している人たちの思う共存を唾棄しているんだろうと思う。 

生も死もない概念こそ、幸福も悲哀も語られぬ空間こそが、同じではないものたちを測らない場所である。 

他にいないという孤独を知らない人間へ投げかけられた作品だったなと思いながら2時間を過ごしました。