聲の形

キリストのいう、罪のないものだけが石を投げよではないけれど、一度の過ちもなく生きている人間っているのかな。何せ自覚がなければ過ちにならない。他者を他者の感じるように傷つけていたとしても、「自分はまっしろしろの人間です」と信じきって生きていくことはできる。正直に言えば。

 

そして日本は割と、その「自分はまっしろしろの人間で~す」として生きていける。いろんなことを自覚しなくて生きてけるところなので。

少年・将也に石を投げれるという人は多いかもしれない。けどそれって、聾者と過ごしたことがないから、いじめがない教室で育ったからできるというのではお粗末だ。自分が、そういった場合にどんな行動をとるのか。どうやってでも加わることができるコミュニティにどう自分は向き合うのかそれを尋ねられている。知らぬ存ぜぬではない。そのためにあれだけの登場人物が出てきて、そして橋で将也に責められる。

 

永束は善意を責められただけだと思うかもしれない。けど、人は一方的な好意に安心感と同時に束縛と、自罰を与えられることもある。それらが誤解の産物であるということは両者が深いところで話し合わなければ理解しあえるものじゃない。

誰かが許してくれることを望んでいる人は、誰かが与えようとする許しを受け入れられないことも多い。その溝をきちんと向かい合わずに近づくだけでは、相手を傷つけてしまう。

 

真柴のように人の輪に水をかける人はほんとツイッターに多い……自分の主観で状況を判断して空いている空間を補足する。その補足はほとんどの場合相手を責めるものになる。随分と一方的でもはや卑怯とすら思えるやり口なのだけど、自覚がないからこそあんな大勢の人ができるんだと思う。

前提にされるものというのは当然の時もあれば、人それぞれの場合もある。よくも知らないのに外で議論して相手を論破した気持ちになるっていうのは自分の快楽にその議題を付き合わせているだけなんだ。まあこれは、いろんな人が口にしているし、無知の知ということで。

 

なんか、ちょっと前にいじめの相談窓口かなにかになろうとした女の子がいじめる側だったとして糾弾されてたことがあった。それはいじめられていた子の告発であり、きっといじめがあったことは確かなんだろう。

けれど、真相というよりもどうしてそうやって物事が進行したのかはよくわからない。たくさん便乗して石を投げている人たちにしてみれば義憤であり、原因があったのだからしかるべき処置なのかもしれないけれどそれはいじめと何が違うんだろうなと思ってみていた。

 

今、ああいう声の上げ方によっていじめが起きるという想定。

過去の清算について語られていないこと。

一度の過ちを許されず一生償えというのならその償い方。

 

そういったものを放り投げて加担する人の多いこと。それは、加担なんだけどなあ。本当にそれだけ思いながら見ていた。

お前も見ていただけなんだなって責めようと思う人もいるかもしれないけど、生きていて全てのコミュニティを拾うことなんか出来ない。どの口が言うんだ無責任だって?じゃあ誰かイラクで起きてる内紛の責任をとってきてくれよと思う。

 

すぐに話が逸れるのはよくないところですすみません。

映画の中で観察眼ですごいなあと思ったシーンはいくつかあって。

 

ひとつは硝子が自殺しようとしたあの花火の流れ。一時的に一気に満たされるとその瞬間以上のものを手に入れられるのかが不安になって人は衝動に身を任せたくなる。その衝動を理解しなくてもいいものとして主人公に与えたこと。あれは確かに過ちなのだけど、「生きるのを助ける」という導きにしたのは救いだと思った。

 

川井の、千羽鶴が集まらなかったというシーン。これは監督も指摘していたことだけど描き方がうまいなあと思った。慈善として動いたように思えてたからこそえぐりかたがえぐい。

元々、物事を自分の都合のいいように解釈する上、常に学生生活に一生懸命取り組んできたという自負心も相まって、自分が硝子をいじめていた自覚はなく、障害者である硝子と交流を持ったことは自身の良い経験になったと信じ込んでいる。また、将也がクラスメイトに裏切られる形でいじめに遭ったことは当然の報いであると考えていた。後にそのような八方美人的性格を「心底気持ち悪い」と思わぬカタチで指摘されることとなる(昏睡状態となった将也のため千羽鶴を集めようとした際にその意図を見透かされ指摘されて十分な数を揃えられず挫折を味わい、刃ヶ谷からは映画の脚本の内容を通してその人間性を鋭く指摘された)。wikipedia

 

強いて言うならきっと一緒に集めさせられただろう同じ穴の狢である島田がどう思っていたのかも気になったけれど。

 

主人公を絶対にやり直せない、許せないと糾弾させるための物語でないことは確かで。けれど、現実としては便乗して糾弾してもいいという価値観が跋扈している。

 

美談で終わるのはあくまでも主人公たちが傷ついてでも向き合うとしたからだという描き方。一側面からだけ見せないために作られた"なおか"という視点。

なんで、この漫画を描いたんだろうと思って調べていくと、「人と人とが理解しあうことの難しさ」について作者自身が「問いかけたかった」んだという証言にうひゃあとなった。当時は議論も起こっていたとのことだったのでちゃんと見ておけばよかったなあと後悔もした。

 

筆者は人と人とが理解しあうというのは無理だと思っているクチである。なにせゴールがない。本人すら理解できていない部分がある。哲学を学ぶのではなく哲学することを学べじゃないけど、永遠の平行線を余儀なくされている命題だ。

かといって世界がソーシャルであることを善としている以上、無碍にはできないつくりになっている。擬似的に「理解しあう」がつくれないままであれば無理だ。そう思う。