ダークナイト&ダークナイト・ライジング&バットマンビギニング

ようやくようやく観ました先月の暮れにだけど。ノーランのダークナイト。元々マーベルは観ていないながら後輩にオススメされ、伊藤計劃のブログで紹介されとしていた映画ダークナイト

 

ダークナイトの奇跡 - 伊藤計劃:第弐位相

リアル漫画映画としての「ダークナイト」 - 伊藤計劃:第弐位相

 

あの異相については散々見てきてはいたし、ハロウィンの仮装でも定番だったのでようやく画面に現れた!という謎の感激があった。いや、お前が早く観ておけばって話ではあるんですけど。

いつでも悪人がピエロの格好をしていると苦笑いと憂鬱が立ち込める。過去の悲愴な事件を引き合いに出せばいいというわけではないけど、あの出で立ちを善意の仮面としたジョン・ゲイシーを思い出すからだ。

そういえば初年度はシリアルキラー展に行ったなあ。

www.vanilla-gallery.com

 

ジョン・ゲイシーって誰だっけとなった方は一応wikiで。

ジョン・ゲイシー - Wikipedia

 

 

さて、かのジョン・ゲイシーもこのピエロ(道化)は「善人の仮面」だった。資産家でありチャリティーという文化の土壌で彼が行ってきた極悪非道を隠蔽するためだと言えばもちろんそのための仮面ではあったのだけど。それでもただの悪人ではなかった。善意は自身の行う悪行のための課程とされていた。その方が多く獲物を捕まえることができていたからだということは隠しようもない。

 

けれど、ダークナイトにおいてジョーカーは純粋な悪意として描かれる。純粋な悪意って本当に難しい。破綻したままで世の中にあり続けるというのがとても難しいからだ。

あの世界ではバットマンがいるから。

きっと世の中には見つからず悪人のまま天寿を全うする人間がいる。

それはそうかもしれない。悪人の話ね。けど、純粋に悪意のみだっていえるものを残していくのは簡単じゃないから。だからあの「仮装現実の中にある悪意」が生きている映画だった。理由なんて主軸以外はころころ変わる。どうだっていいからだ。それが「悪意」であることだけがジョーカーの求めていることだった。

 

口の傷についてジョーカーが二転三転するシーンがとても好きだ。そのことについては語りたいが経緯などはどうでもいいのだ。そこが「人と違い裂けたという理由があったこと」があの男にとって大切なのだ。真相などジョーカーすら必要としていない。これが「悪意」の象徴なのだなあと思ってみていた。

 

相手がバットマンだろうか正義だろうが関係ない。ジョーカーが対峙しているのは正義や正義のための何かじゃなくて「自身が退屈を抱えること」であり「悪意の連続性をいかに保てるか」という命題なのだ。

 

伊藤のブログでも言われているけれど、正義のヒーローを生み出し続けるのも楽ではない。その正義を続けられるだけの悪がいるから。悪がなければ正義のヒーローは成り立たない。誰かが格好いい正義のヒーローを求めるということがそも「悪を生むこと」でもあるのだ。

そして「悪意」を活かすための「正義」がこの映画には存在しなければならなかった。この逆転した順番のなんて面白いこと!悪意のために正義を考えなければならなかっただなんて。

 

悪意を潤沢にするために多くの正義が費やされた。けれどその純粋な悪意はなんの正義も求めてはいない。ただ、悪意と名前をつけた箱を満たすためにたくさんのものが投資された。映画一本の金額よりも、その投げ込まれ消費された正義の量のことを考えてしまう。

 

けれどどれだけの量の正義を抱えようとも「ただ退屈を紛らわせたいだけの悪意」は永遠に満たされることはない。ひたすらに喰われ喉元を過ぎ価値なきものとして扱われるだけなのだどんな善意も正義も公正もジョーカーを満たしはしない。

 

だがしかし、正義や秩序があるからこそジョーカーは楽しいのだ。もしも正義も秩序もなく「特別ではない悪」で満たされた世界だったら。きっとジョーカーはその世界にすぐに飽きて死んでしまうかもしれない。立ち向かう正義こそ食い物になる。

 

出尽くした感想の上、伊藤の感想をなぞるものになったのはもう仕方がないかなと思って欲しい。

けれどこの相反する状態、拮抗したバランスが保てるということが創作の醍醐味なのだ。ユートピアが同時にディストピアの反面を持ってしまうことに批判もせずに手を叩いて笑っていられる瞬間は、創作相手だから許される。

 

 

ユング心理学に永遠の少年という元型がある。

ユングが言う「永遠の少年」とは?

 

大人になることを拒否しながらも大言壮語であったり、飼い慣らせていない自尊心を持っている大人のこと。

彼らはどこかのタイミングでよりよい飛翔を目指すのだが彼らの本質の持つ無為により落下と死を永遠に繰り返す。

彼らは常に母親の母体と自分を成人手前で何度も行き来する。絶対的な聖地のことを母と呼ぶのだけど、そこから離れられないまま大人になるというわけだ。永遠の近親相姦とも呼ばれている。

宿り木と呼ぶこともある。神話におけるロキは永遠の少年の元となった神であるバルデルにイタズラをするためにこの宿り木を唆したホズルという神に投げさせバルデルを殺してしまう。そしてロキは多くの神々に追われることとなるわけだ。

 

ちょっとまだソーの物語を見ていないのでその辺りがマーベルのソーに関連するのかは知らないのだけど。ジョーカーはこの永遠の少年として描かれている。

そして持ち得る悪意のために空想世界になどいかず、バッドマンがいるあの世界でジョーカーは生きている。自分が幸福であるために生きるための方法で世界を破壊しているのだ。

飛び続けるためにただ立ち向かってくるものだけを欲している。その他の理由を見てしまえばいつかその羽は焼かれるかもしれない。そのための純粋な悪意なのだ。何者をも必要としない、退屈を満たすためだけの悪意は磨かれていく。

 

世界というよりも社会に立ち向かっているジョーカーはけれど、社会が悪に満ちた瞬間に自身が死んでしまうという矛盾の中で幸福に生きようとする。

そして最大幸福のために世界はあろうとするからこそ、悪意のみに世界は染まらないということに感謝と怒りを感じながら生きている。

 

悪意を活かすということから正義を考えるということは希でいい経験だった。ありがとうダークナイト

 

 

ちなみにユング心理学河合隼雄先生の本を読むのが一番わかりやすい。個人的にオススメするのはこれ。

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

あ、そしてダークナイトを観たあとにライジングとバットマンビギニングを観ました。せっかくの機会なので。

ライジングは特別語ることはないからいいかなあ。あんまり覚えてないんだけど。いや、映像やマーベル的に隠されているものは多かったかもしれないけれど、正直ダークナイトを観た後で特別言いたいことは出てこなかった。

アン・ハサウェイがかっこかわいいからそこだけはオススメです。大好きアン・ハサウェイ

 

バットマンはビギニングの方しか観ていないのでバートン映画との比較とかはなんにもできないし、特別いえることはないかもしれない。

複雑なことにあそこまで現実的に描かれた現代人からなるバットマンだけど、その過去や経緯もまたジョーカーの前では無為なものになる。必要善なのだけど可哀想だなあとすら感じてしまう。

報復の自覚により報われないヒーロー。「正義のヒーロー」に付随してくる万能感を崩したかったと言われればそれまでかもしれない。関連した記事の一つも読まず原作も読まずだけど、悪意の前に引きずり出されるにしては陳腐な正義になってしまう葛藤は実に可哀想な代物だなあ。

 

とにもかくにも救いのないバットマンという映画三作だった。一般的な幸福の範疇をずれれば人はうまいこと幸せにはならない。幸せが全てじゃないとしても、例えば生まれる家は選べない。グッドバッドブックならぬグット(ド)バッドマン。

 

個人的な想像としてはハンニバル・レクターは喝采をおくらない。無辜の正義のヒーローの方が血なまぐさい英雄と対比しやすい。

悪意にすら報われない正義の虚しいこと虚しいこと。

 

あ、超次元とめちゃくちゃヒーローが出てくるアニメでオススメがあります。血界戦線っていうんですけど。

kekkaisensen.com

 

バットマンみながらずっとタイバニと血界を思い浮かべてました。バットマンがスティーブンだと思うとやるせなさもあるけどこう、秘密結社だからさ。クズも高潔もめぐりめぐっていっそはちゃめちゃな方が楽しい!くらいで見れますオススメです。突然ですけど。

明るくクズにNYを崩していこう。バットマンのやるせなさを払拭するのにめちゃくちゃ見返したくなった。

おっさんずラブが流行ってもゲイが流行るわけじゃない

案の定ツイッターおっさんずラブの視聴者から「ゲイの人名乗り出てカモン!」という発言があがり炎上してるのを見かけた。流行りに水を差すようで悪いけど、「現実のゲイのみなさんは誰かの消耗品の作品じゃないよ」っていう話をこんこんとするよ。

 

地上波でBLドラマがついに流されることについては純粋にすげー!と思う。BLドラマって昔むかしからあるけど市場が大きいものではなかったので有難いなあと思う。それについては純粋にすごい、と有難いを感じる。いろんな作品が人の前に出されるきっかけをつくった人には常に敬意を払いたいという個人的なありがたさだ。

 

わたしはまだこのドラマを見てないのだけど、noteとかにも企画になっていていかに世の中の人が注目していたか、また注目を引っ張るかが伝わってくる。ただ、たーだあくまでもこれは商材としてのBLだ。あくまでも、BLなのだ。BLが地上波の力を借りて共有されただけであってゲイの人のあれこれに干渉していいって話に繋がってはいないんだ。

世に言う腐女子が好きだよー!っていうBLという名前の嗜好品が放送されたんだ。がねほりんぱほりんとかに取り上げてもらってちょろっと認知されてきたから出来た商材だ。けど、世の中が役者を使った映像でBLの楽しみを共有しているからといって、ゲイが好きな人が増えたわけじゃない。ゲイが流行るわけじゃない。そもそも、創作物のBLと、実際のゲイの人たちの間には大きな壁が存在する。

 

現実とは違う。おっさんずラブはあくまでも嗜好品であり、消耗品の創作だ。だがしかし現実のLGBTの人として自分の恋愛は誰かの消耗品のためにあるわけでもなければ嗜好品のためにあるわけではない。

その区分けがないまま世の中に受け入れられているものだ思われてしまうのは、まだ困る。まだっていうのが肝心で、今転換期だなぁって思うからそのうちにはいろんなハードルもなくなっていくだろうと思う。

 

どちらかと言えば現実ではLGBTは忌避されているのだ。カムアウトすればよくやったと賞賛される。まだ、特別だからだ。誰かが言うように早く誰が誰を愛そうとも普通の世界がくればいいと本当に思う。

レズの人たちよりもゲイの人たちの方が風当たりはきついんじゃないかなとも思う。(よくわかんねえなっていう人はオカマバーとか行って聞いてみよう。きっと不用意なことは言われないと思う。けどその不用意なことを言わないという事そのものが現状の限界だ)

 

これをツイートした人に悪気はなかったんだと思う。元々BLが好きだったのか、おっさんずラブを見てBLを好きになったのかはわからないけど。でもね、悪気がなく「ゲイの人、わたしは受け入れるからカムアウトしてよ!」っていうのは理解がない証拠になってしまった。そして当然怒らせてしまった。

 

まだまだ普通じゃないんだ、同性愛って。先日北海道で同性愛パートナーへの条例をつくろうとしたら苦情が随分ときたという話をみかけた。その苦情の数に「これだけの差別を受けているのだ」と受け取ってくれたことは本当に有難いことだと思う。数にすれば男女が恋愛をして結婚するよりも遥かに受け入れられないとしている人が多い。

 

ああやって誰もが見れるテレビで大々的に取り上げられているとあたかも日本中の人がウェルカムしているように思えるかも知れない。けど、興味がない人や嫌悪感のある人はそもそもあのドラマを観ようなんて思わないだろう。「結局ゲイのドラマ」または「BL」で終わってしまうのだ。

 

あのドラマの視聴者は、「ゲイの人」じゃなくて「BLが好きな人」だったはず。あのドラマは、「ゲイの人のため」ではなくて「BLが好きな人のため」にまだ、なっている。

そりゃもちろんああいった作品から何か奇跡が起きてものすごく理解していこうぜ!っていう流れができるかもしれない。未来はわからないから。けど現状は、そういうものだと思って頂きたい。

 

その上、本当のゲイの人たちに含まれる苦労や差別や忌避のされかたを知らずに「名乗り出て下さい」は正直恐れ入る。彼らの苦労や辛さは、BLが好きな人たちへ捧げる消耗品でも嗜好品でもない。

 

あくまでも創作だからいいんだ。あのドラマは。創作っていうのは前提として「消耗品」であり「嗜好品」だ。消費されることに意味が有る。

BLは、消耗品なのだ。嗜好品というのは好き好きがあるからこそ批判もされる。自由でいいとはこういうことだ。けれど、現実のLGBTの認知はまだ低い(からこんな発言が出たわけだし)

 

BLのシチュエーションで、「でも男同士は結婚できない」や「男が男を好きだと言って、下の関係に戻れなくなるのは嫌だ!」な王道は、現実ではその人の生涯に関わることなのだ。引きずり出そうなんて許されることじゃない。あんまり言うことじゃないんだけど、腐女子やってる=LGBTへの理解があるでもないはずなんだ。許容はあるかもしれないけれど。どのシチュエーションが好きかは自由でいいと思うんだけど、それと「本当にそのシチュエーションで苦しんだことがある人の思い」は別物だ。

 

LGBTの創作で利益を出すことと、(BLやGLも含むよ)LGBTの人を理解することは違う土俵だ。

それだけは、わきまえて頂きたい。

 

LGBTの窮状は、noteやはてななどいろんな媒体で書いている人がいるから調べてくれればって思う。わたしは自分のことしか語れないから、「性別のないわたしは同性愛か、異性愛か」この記事を貼っておく。わたしもトランスジェンダーの一人としてああやっぱりそうなったかと思ってしまったから。常にフィクションの価値はノンフィクションと重なるわけじゃないんだ。

 

成功体験とかはぜひに賞賛して欲しい。出来れば一つの愛の形として。誰かが誰かを会いしたその成功談として、拍手を頂ければそれだけで十分だと思うから。

 

歴史の話で言えば、映画『イヴ・サンローラン』や『イミテーションゲーム』といったノンフィクションとされるものを観てもらえたらなって思う。名前を知られた偉人でさえ、同性愛という「犯罪」で苦しみの中死んでいった過去があり、まだその世界線は継続している。

 

わたしはゲイを代表して言えるわけでもないし、残念ながら性別のつくりから自分の恋愛は同性愛にも異性愛にもなれないと思ってる。けど、創作物と混同されるのは嫌だなあという思いがあったからあれこれと言わせてもらいました。

 

ところでここまで書いといてなんだけど。内側から批判あってどんどん話するからなるべく受け入れてってよー!ってなるのもそれはそれで期待する。おっさんずラブが入り口になって見事な出口ができるのもまた一つの希望なんだ。

内側に向いてるうちって悲しみやら過去やらが大事なんだけど。いつだって前にしか世界は広がらないからそのうち前に出る人と後ろ向きに執着する人でも違いがでるんだろう。いつだって転換期はそんな感じだ。普通になる瞬間ってそんなもんだよ。いつだって革命は内側からの批判だ。

 

 

余談その一。筆者が今、LGBTで創作してるじゃないかよーという人へ。

創作がなにかの窓口になるのも確かだから。やるせなさや憤りがあるから書いてる。LGBTによる創作をするなとか、食物にするなとかいうことじゃないんだ。食物にしていることと理解は別物だからこそ、違うということへの理解が欲しいなと思って書いただけ。LGBTってまとめてもあくまでもひとりひとりの人生だから語れることなんて自分のことだけなんだ。

 

余談その二。毒舌ネットマナーの時代って大事だったなあ。

というよりも調べたらまだあって感動した!どうも、個人サイト時代の人間です。SNSやフリーなピクシブとかが出てきたから二次創作=自由みたいな風潮が随分と出てきたなあと思うしとても危機感を感じる。日の目を浴びないのが二次創作っていう感覚がないままだからこそ、こういった形での現実への介入があったんだろうなとも思う。登竜門がないって怖いなあ。

二次創作や同人って嗜むものなんですよ。それについては前回「二次創作、嗜んでいらっしゃいますか?」であれこれ書いたのでよければ。

 

 

 

性別XなのでLGBT団体とやらからは避けていたい

障らぬ神になんとやら。

わたしは個人のアイデンティティとして自身の「性別なし」には大いに自覚があるし、それによるあれこれもあるのだけど。

迫害や差別、理解を訴える団体を唯一帰属できる場所と思っているかというと、そうではない。というよりも意図的に避けているところがあるので、それもいかんなあと思うくらい。

 

誰を愛すとも普通であり声を上げるような必要もない世の中がくればいいと思うのは確か。声をあげた所、自分もそう見られているのではないかという猜疑心から嫌悪感が生まれる世の中であることも確か。BとTをきちんと語れる人が少ないだろう国に生きているのも確か。だから、マイノリティを認知させるための前線に立つひとたちがまだまだいること。実際にそうであるのにマツコ・デラックスさんのようにキャラクターとして認識されている人たちがいること。受け入れろという姿勢により受け入れないがわの権利と戦う状態も勃発していること。そのくらいは一応知っている。

 

なにごともまずは認知されるところから。ちょっと前にグランブルファンタジーというゲームに出てきたベリアルに「ソドミー」という台詞があってびっくりした。もちろん悪魔が言うのだからそれそのものには問題ない。けど、認知されていないものをぶっこんできたなあと思った。案の定BL的に盛り上がりかけたのをちょろっと見たんだけど。ソドミー法自体はまだまだ暗いものを抱えている。ちょっと前にチューリングのことをあれこれ書いたけれど結局彼だってソドミーの根深い慣習によって名誉毀損をされ続けてきたわけだ。

 

なんというか、レズやゲイを嫌いである権利の主張を見たときに、個人を超えて根が深い話なんだよなと思ったことがある。そうやって国家は人を裁いてきたし、生殖としても意味はない。(なんて言ったら子どものいない夫婦はどうこうってくるけど今はそこを論点にはしてないので)

生まれてきた世界がずっと「何でもアリ」だったら特に「嫌いである権利の主張」なんてなかったんだろうけどそうはいかない。特に同性愛によって実刑があるわけでもない日本でみかけたこの権利の主張だ。真意のほどは定かではないけど、結局「何が嫌いなのか」を語られなければ観点が多すぎる問題になる。

・自分がそういう風に同性にみられている可能性が嫌だとか

・BLやGLで萌えっている人種が嫌だとか

・実際の性行為を想像して嫌だったとか

とりあえず挙げられる理由を三つだけ挙げてみたけどまだまだありそうだ。でも、歴史的な否定はあんまりないように思える。だけに厄介だな。

 

さて、そんな根深いところに「自由に人を愛し生きていける権利」で突っ込んでいく団体はなんというか、厄介だなあと思う。万能な言葉はだいたい闘争の元だ。「自由」とか「正義」とか「平等」とか。万能すぎて個人に走れるものは、全体図を見れば及第点だと思えるところまできても批判があがる。もちろん無駄なことだとは思っていないけれど、その訴えとは別にどうにもこの団体に所属できないという気持ちがある。

 

どうにもどれにも所属していないという気持ちがあるからだ。前回お話した通り、わたしは性別がないため、ぶっちゃけて言えば「同性愛」でも「異性愛」でもない。

ない、というよりもならない。なんならバイセクシャルにも帰属しない。残されたTの中はさぞかしぐっちゃぐちゃだろう。ぐちゃぐちゃの中でまた集団を作ると、大きいところで終わった時にできる新集団になってしまう可能性がある。

 

どうにも、それが面倒だなあと思ってしまう。「ないもの」をあるようにしなければならないのは矛盾しているし喝破できる確率も低い。

スタンスとしてギリギリ理解できる表面的なものは「男女どっちでもいい」というやつだが(自分も、仮に恋愛というパートナーを考えるにしても)実際にはその逆だ。どちらでもない、なのだ。

性別X。なんと厄介なものなんだ。いや、わたしも気持ちがか。

 

そういうわけで厳密に言えばLGBTの人たちの苦悩や悲しみを理解できるわけでもない。義憤に乗ってあれこれ言うのって、言えるけど、後で後悔することが多いからやりたくない。

もはや「考える故に我あり」程度しかわからないレベルだ。そうなると人は考えるのを放棄しそうになる。同性・異性、その輪に入れないということを忘れたふりをして生きていくという方法。

 

残念ながら、その忘れたままができずにやるせなさにしがみついて小説なんて書いているわけだけど。

 

性別がないとはいえトランスジェンダーにくくられるし、入口はLGBTになる。きっとほとんどの人がそうなのだと思う。たまにあるけれど、入口がなかなか厄介でその入口ごとちょっと苦手意識を持ってしまうやつ。現状そういった感じだ。なにせ入口はそこにしかないけど、出口はそこにはない。

 

症例だけ載っているというのが近い感覚だろうか。

LGBTらしいけど、その名前に苦手意識がある人って他にもいるんだろうか。いると思う。うん、無理に帰属しなくていいと思う。

ノンフィクションで戦うって大変だけど、なにも全員が声をそろえて同じ戦い方をしなくてもいいんだ。

 

 

聲の形

キリストのいう、罪のないものだけが石を投げよではないけれど、一度の過ちもなく生きている人間っているのかな。何せ自覚がなければ過ちにならない。他者を他者の感じるように傷つけていたとしても、「自分はまっしろしろの人間です」と信じきって生きていくことはできる。正直に言えば。

 

そして日本は割と、その「自分はまっしろしろの人間で~す」として生きていける。いろんなことを自覚しなくて生きてけるところなので。

少年・将也に石を投げれるという人は多いかもしれない。けどそれって、聾者と過ごしたことがないから、いじめがない教室で育ったからできるというのではお粗末だ。自分が、そういった場合にどんな行動をとるのか。どうやってでも加わることができるコミュニティにどう自分は向き合うのかそれを尋ねられている。知らぬ存ぜぬではない。そのためにあれだけの登場人物が出てきて、そして橋で将也に責められる。

 

永束は善意を責められただけだと思うかもしれない。けど、人は一方的な好意に安心感と同時に束縛と、自罰を与えられることもある。それらが誤解の産物であるということは両者が深いところで話し合わなければ理解しあえるものじゃない。

誰かが許してくれることを望んでいる人は、誰かが与えようとする許しを受け入れられないことも多い。その溝をきちんと向かい合わずに近づくだけでは、相手を傷つけてしまう。

 

真柴のように人の輪に水をかける人はほんとツイッターに多い……自分の主観で状況を判断して空いている空間を補足する。その補足はほとんどの場合相手を責めるものになる。随分と一方的でもはや卑怯とすら思えるやり口なのだけど、自覚がないからこそあんな大勢の人ができるんだと思う。

前提にされるものというのは当然の時もあれば、人それぞれの場合もある。よくも知らないのに外で議論して相手を論破した気持ちになるっていうのは自分の快楽にその議題を付き合わせているだけなんだ。まあこれは、いろんな人が口にしているし、無知の知ということで。

 

なんか、ちょっと前にいじめの相談窓口かなにかになろうとした女の子がいじめる側だったとして糾弾されてたことがあった。それはいじめられていた子の告発であり、きっといじめがあったことは確かなんだろう。

けれど、真相というよりもどうしてそうやって物事が進行したのかはよくわからない。たくさん便乗して石を投げている人たちにしてみれば義憤であり、原因があったのだからしかるべき処置なのかもしれないけれどそれはいじめと何が違うんだろうなと思ってみていた。

 

今、ああいう声の上げ方によっていじめが起きるという想定。

過去の清算について語られていないこと。

一度の過ちを許されず一生償えというのならその償い方。

 

そういったものを放り投げて加担する人の多いこと。それは、加担なんだけどなあ。本当にそれだけ思いながら見ていた。

お前も見ていただけなんだなって責めようと思う人もいるかもしれないけど、生きていて全てのコミュニティを拾うことなんか出来ない。どの口が言うんだ無責任だって?じゃあ誰かイラクで起きてる内紛の責任をとってきてくれよと思う。

 

すぐに話が逸れるのはよくないところですすみません。

映画の中で観察眼ですごいなあと思ったシーンはいくつかあって。

 

ひとつは硝子が自殺しようとしたあの花火の流れ。一時的に一気に満たされるとその瞬間以上のものを手に入れられるのかが不安になって人は衝動に身を任せたくなる。その衝動を理解しなくてもいいものとして主人公に与えたこと。あれは確かに過ちなのだけど、「生きるのを助ける」という導きにしたのは救いだと思った。

 

川井の、千羽鶴が集まらなかったというシーン。これは監督も指摘していたことだけど描き方がうまいなあと思った。慈善として動いたように思えてたからこそえぐりかたがえぐい。

元々、物事を自分の都合のいいように解釈する上、常に学生生活に一生懸命取り組んできたという自負心も相まって、自分が硝子をいじめていた自覚はなく、障害者である硝子と交流を持ったことは自身の良い経験になったと信じ込んでいる。また、将也がクラスメイトに裏切られる形でいじめに遭ったことは当然の報いであると考えていた。後にそのような八方美人的性格を「心底気持ち悪い」と思わぬカタチで指摘されることとなる(昏睡状態となった将也のため千羽鶴を集めようとした際にその意図を見透かされ指摘されて十分な数を揃えられず挫折を味わい、刃ヶ谷からは映画の脚本の内容を通してその人間性を鋭く指摘された)。wikipedia

 

強いて言うならきっと一緒に集めさせられただろう同じ穴の狢である島田がどう思っていたのかも気になったけれど。

 

主人公を絶対にやり直せない、許せないと糾弾させるための物語でないことは確かで。けれど、現実としては便乗して糾弾してもいいという価値観が跋扈している。

 

美談で終わるのはあくまでも主人公たちが傷ついてでも向き合うとしたからだという描き方。一側面からだけ見せないために作られた"なおか"という視点。

なんで、この漫画を描いたんだろうと思って調べていくと、「人と人とが理解しあうことの難しさ」について作者自身が「問いかけたかった」んだという証言にうひゃあとなった。当時は議論も起こっていたとのことだったのでちゃんと見ておけばよかったなあと後悔もした。

 

筆者は人と人とが理解しあうというのは無理だと思っているクチである。なにせゴールがない。本人すら理解できていない部分がある。哲学を学ぶのではなく哲学することを学べじゃないけど、永遠の平行線を余儀なくされている命題だ。

かといって世界がソーシャルであることを善としている以上、無碍にはできないつくりになっている。擬似的に「理解しあう」がつくれないままであれば無理だ。そう思う。

 

 

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

誰の視点から語られるのかというのは舞台装置の一つだ。ファンタジーであれば少年少女、世界と戦うのであれば青年。ジェンダーの観点から女性主人公をヒーローにしたり、異形との恋愛のため美しさにこだわらない登場人物の起用すらある時代だ。顔と設定は表裏一体なわけだけど、イメージからぶれないというのはいつの時代でも必要。

 

この映画の主人公は、聡明な顔をしている少年だった。けれど、どこか違和感がある。その違和感は日常の中にある小道具で引き出される。かき鳴らされるタンバリン、言葉数の多すぎるセリフ回し、数字への執着。ああそうかと思った時には、「何故、死を隠すのか」という糾弾に変わる。

 

少年が窮地に陥っている。それはシナリオとしては珍しいものではない。けれどあんなにも、多すぎるセリフに心を締め付けられたのは初めてだった。苛烈な責め苦と激情、どうして裏切ったのかと母親を責める少年は同時に引き合いに出される「正しさ」とも戦っている。

板挟みになっているあのシーンで泣きそうになってしまった。不安や苦しさを、どうして正しさだけで導かないのかと問いただす少年。異常にも思えるのかもしれないし、当然の世界なのかもしれない。

 

けれど、本当に。「正しさを受け入れるために苦しむ」という人びとは存在するのだ。冗談やすり替えた話題では納得できない。絶対的なものがあるのに、それを情緒に屈服させる意味がわからない。けれど、心は苦しいと、悲しいと言っている。その矛盾を両立させることができない苦しさがある。生きづらいだろうと思う。彼は、子どもの視点で言っているわけとも、世の中を知らないから言えるというわけとも違う。「正しさ」以外受け入れられないからこそ「正しさ」と戦っている。だから途中で気持ちに寄り添おうとした間借り人は去っていってしまった。一度決めた約束事を違えることを少年はまた糾弾する。

 

優しさを食い込ませることが難しい。けれど、優しさでなければ守れない。正しさは優しさではないし、正しさだけでも優しさだけでも誰かを守ることはできない。たった一つの答えがあればもっと明確で簡単で、楽に生きていけるかもしれないけどそうなることはきっとないだろう。だから、多様性への諦めを人は教えられなければならない。少し話がずれたけど、この諦めは正しいものじゃないからこの少年が受け入れるのは、難しい。

 

9.11についてあれこれ語るほどのものは持ち合わせていない。ただあれがテロで、戦争が始まった。当初小学生だった筆者にとってはTVの中で起きている事実は遠い世界の、理解の範疇を超えた出来事にしか感じられなかった。事実、知らない世界で起こっていることでしかなかった。

 

12歳の頃の自分の素直な感想だ。義憤で責められていたとしても結局何にも言えなかっただろう程度。ただ、主人公の少年があの隔絶を経ても訪れる日常がある。けれど世界は変わってしまったらしい。政治や武力行使なんかはあの映画には出てこない。当然だ。だって子供にとっては自分がまだ世界の中心だから。世界に何が起こっていようとも外の世界の話になってしまう。

 

 ゼロ年代と言われる作品のいくつかはこの9.11を契機としている。テロが大々的に世界に登場したのだから当然のようにも思えるが、これだけを特別とするのは難しい。伊藤計劃が生前注意を促していたことを思い出す。どれかだけが特別ではない。今も自分たちが見ていなければ知らないものとして終わる情勢が多くあるのだ。9.11は衝撃として人びとにそれを見せただけだ。ツインタワーが崩落しなくとも、同じ意味合いの出来事は世界で未だに起きている。

 

けれど、この映画はそういった世界情勢のためのものだとは言い難い。実際、多くの人にとっては突然奪われたことによる悲しみややるせなさが去来した出来事だったと思う。隣人の損失はあったけれど、数字による衝撃、明確になった戦争まではこの映画では描かれなかった。あくまでも少年から見た、少年の中に存在する世界こそが戦いぬかねばならない舞台だったからだ。

「情感で隠されたものと正しさ」との間で戦うということ。少年がアスペルガー症候群であるということ。その視点が共感を呼ぶものであった場合、今ある迫害の認識を人びとはどう受け止めるのだろう。感動したというのなら何に感動したというのだろう。そんな訴えを感じ取った。

隣人を失う衝撃はどんな言葉に変えても、誰が言おうとも、同じ価値なのだと言われたような気もした。

 

その、言葉なき喚起を演技してみせたこの少年は本当に何者だったんだろう。あまり役者の好き好きがないので語れる情報がないけれど。

こどもが自然と抱えてしまう矛盾を意図するというのは難易度の高いことだと思っている。その矛盾を言葉と表情でそれぞれ伝えてくる彼の演技にずっと魅入っていた。何よりとてもしんどかった。

 

覚えているのはどうしようもなくなった怒りを発露させているシーンばかりだ。母の糾弾、自分がやっている答えは見つかるのかと間借り人に尋ねるシーン。父親の留守番電話を聞けと迫るシーン。誰かにぶつけることによってずっとオスカーは傷ついている。その傷心がひたすらに伝わってくる。

 

橋を一人で渡るのが怖かったこと。間借り人が右手にNOを、左手にYESを用意していたこと。

最後のノートのシーン、父親がビルから落ちるあのシーンを入れなければ。あのシーンを隠すことによる矛盾を受け入れられない一貫した態度。

相手のことなど考えずただ暴力的に真っ直ぐに向かってくることへの恐怖を、この映画は実に巧みに描いている。

 

見ていて、こんなに疲れた映画は久しぶりだった。辛くて、やるせなくて、けれど自分は矛盾を許せる世界で生きていける気質であることへの幸福すら感じた。

世の中にはそうつくられている人間がたくさんいるのだ。脳の違いを人は個性と呼べるのか。呼べないというのなら何が違うというのか。ずっと疑問が頭を占めるけれど答えは出ない。

 

個人的にはようやく観た映画だったけれど、9.11による啓蒙というよりも「矛盾を抱えられない人びとの苦悩」の映画としてぜひ。ああもうほんと、しんどかった。一週間経ったけれどまだちょっと、気落ちしてる。

 

 

シェイプオブウォーター①

シェイプオブウォーターのメモ。あとでもうちょっと長ったらしいのをあげるけど、これは当時衝動に駆られてのメモ。最近も観てるけど書けてない。

 

シェイプオブウォーター。あれほど作り手の怒りと、見る側の傲慢や欺瞞を映し出している映画はないなと思ったほど鮮烈でした。差別や偏見・美しさとは人間の境地か?・怒りのモチーフへの考察あれこれ。あえて露骨に出されていたよ。

監督の怒りを表現する方法として、嫌いな差別と偏見をあえて与えられたのだろうと思った。 

まずは登場してくる人物にべったべたなステレオタイプがあったこと。登場人物に見た目からも判断できるステレオタイプがあることで、その人の過去や未来を連想させることができる。でもそこには全て"偏見や差別"がある。この監督はまずそれを、第二次世界大戦中を匂わせていたとしても使ってきた。 


これは個人的にはかなり意外だった。でも、ストレートなステレオタイプを使うことでこの差別や偏見は事実であり、今まさにその瞬間お前が行なっていることだ、自覚しとけよって言われてる感じだった。 

まずは主人公のイライザ。顔の醜美が絶妙な役者さん。その醜美を敢えて使っているのだなと思ったのは、彼女が繰り返しの毎日を演じる中で、バスの車窓を眺めながら口元を少し隠したシーン。 
この、年齢による劣化は正しくこの女性の劣等感を表している。ほうれい線に表れる年齢を隠せば美人、そのための小さなワンカット。 
もう彼女には老いていくことへの諦めがあった。 

毎朝の自慰のルーティーンも、誰かに満たしてもらうことができないという欲求の表れでもある。もう若さによる恋も難しい、それらをせめて快楽や背徳感で満たそう、それだけ。 

それと、この唖者であるという設定。"聞こえるけど喋れない"の方が差別は酷い。そして、唖者である以上恐らく海外においてレイプされた経験があるのではという推測、性的倒錯によって自己満足を得ていたのではないかなという歪曲した愛情を示唆させた。性的に満たされる欲求にバイヤスがある人ほど、愛とsexが重なるんだけどその体現という感じだったなぁ。 


イライザの友人ゼルダ。黒人女性という典型的な差別を描ける。これをチープだというのはとてもじゃないけど道徳心のない。 
彼女は途中で、自分の名前に入っている"D"、デリダを必要以上に貶される。そこで黙る彼女はイライザと違い言葉を持っていることによって、"望まれた無知の黒人"を演じる。わからない言語ではなく共通の言葉を彼女が話すことで生まれる嘲り。そして、もしかしたら彼女が"裏切るのではないか?どうせ黒人だ"というこの時代への偏見も与えようとしてた。けれど、あの速さの手話を解読できるということは、元は看護師とかそういう役職だったのでは?と思う。 
看護師という職が、神様へ祈る職業が、ゼルダの性にあっていたかはわからないけれど。 


警官であるストリックランド。白人、強靭な肉体、傲慢による渇望、トップになれない小物の典型例。誰かを貶めることで満たされない承認欲求を擬似的に満たすタイプ。だからこそ功績に執着する。この物語の結末は実に陳腐な人間の執着に委ねられるぞ、と推測できるほど。 
そしてあの時代特有の大量の精神安定剤と、その擬似モデルの飴。口腔に抱えたコンプレックスは最も幼少の、ただ母に甘やかされた頃を夢見ていることを示唆する。何を手に入れても満足できない、人のものや、自分にないものを欲しがる。わたしは頑張っているのに、というのを嘲笑させ後味悪くさせるためのステレオタイプ。 
薬と銃は近しいモチーフだ。どちらも人が生み出したもので、どちらも守る事と殺す事の両義がある。 

イライザの同居人であるジャイルズ。 
時代に取り残されて、イライザの中で"父と恋人"という立ち位置。恋人なのかな?って思って見てたからまだ真偽のほどはわかってないけど。イライザとしてはジャイルズに愛は向けているけど、存在も曖昧な父というものと同じになっているため友人にもならず、ジャイルズの傍にきたからこそイライザがエディプスコンプレックスを抱いたという役回りのような存在。となれば、この時代の遅れ人もイライザを裏切らない立ち位置なのだろうと思った。幼少期の甘美への執着と、老獪への憧れを描かれる人。そのはずなのにジャイルズもまた老いによる"かわいそう"という感覚を伝えるために置かれた駒のようだった。 

博士。 
戦争時代における研究者とは、いわば人殺しである。アインシュタインのようにマンハッタン計画にまで影響力を与える反戦主義は珍しく良心があればほとんどが自分のやりたいこととそれによって人が死ぬ事を天秤にかけられる。不要な研究など許されない。ダブルバインドという意味ではストリックランドとは対に感じたけれどあくまでも研究者という人間の業がステレオタイプとしての彼の役目だった。破綻する意見などもそれは良心や善性のためではなくあくまでも研究のためというところが垣間見えるように作られるだろう。そして研究者や数学者は低い価値や地位として描かれるだろう。そういった推測まで抱かせた。 

HE"不思議な生き物" 
その人の性質によって呼ばれ方が変わるのは、"見た目が人外である"という一点からのみ。あれが人と全く同じ形であれ、ミノタウルスであれ構わない。そんな何かを描かれている。同じ人間ではないということが大事だったわけで、heが何であるかは本当の意味では関係ない、何故ならば人ならざるものだからという理論が見えた。同じ人であれば差別という言葉が使えるけれど、見た目が違えば同じ行為を差別だと断じる人はぐっと少なくなる。 
あれはあなたには何に見えるのか?を画面越しでずっと問われていた。バケモノか?クリーチャーか?何か一個体か? 

そしてこの不思議な生き物は言葉を介すとされたけれど、この言葉の意味通りに受け取り、手話なんてわかるかよーって思うのであれば随分と傲慢だ。 
神にとって言葉は神自身が分断したものである。その全てが滞りなく理解できるのは当然であり、だからこそ神なのだということなのだろうと受け取って見ていた。 
もしも肉体のある神を知らず得たならというifの物語。美しくない異形は、ただ人間がそう思うだけで何の価値も、差別足り得る理由もない。そのための登場人物だった。

 

シェイプオブウォーターの結末は最初から予想されたものであったけれど、そうたらしめているのが自分たちであるという認識は持った方がいい。他人事の感想など求められていない。

ストーリーは個人的にはずっと正論でお叱りを受けている気分で見てました。というか始まりからひやひやしてたせいでずっと落ち着かなかった。 

イライザの本当は性的倒錯に溺れたいという欲求が、美しくないものだと言うのは随分身勝手。あれが、美しく、若く描かれていたならほとんどの男性が嫌悪することはない。また、天上の人ということて並の女性は受け入れるだろう。でもそれは監督はやらないとしていたことだから、人の基準の醜さを当てこまれていた。 
老化、傷、貧相な胸、判断材料ばっかりを見せつける。ずっとその手法を画面のどこかに使われている。 

また、からだのどこかに障害があるということは勝手な神聖を齎す。目に見えた理解できない苦労を感じて身勝手に同情する。ゼルダが看護師かなって思ったのはそういった差別やマウントが全く見られなかったこともある。普通でない人として扱うことはその人の尊厳を歪めているのだけど、大多数は気付かずやっていること。 

この、気付かずにやっているという普遍性が監督にとって憎かったんだと思う。それの何が悪い?だってかわいそうじゃないか、という五体満足による傲慢がね。安直な示唆ではなく"怒り"を根本とした表現だと感じたのはそれか理由。 


話が通じるけれど、返すときの拙さに人はマウントをとったという幻想を抱かせる。見事にそれを表現されたストリックランドはそれによって落ちぶれていく様の価値を突きつけられてもいる。 


heの見方はそれぞれの精神性を表しているのだけど、一番最初に観客として脅かされ、自分と同じだという感想を抱けなければ観客それぞれに残っているのは傲慢や欺瞞の感想だ。 
一瞬でも怯えたなら、無様なストリックランド側(排他)かゼルダ(見て見ぬ振り)のどちらかなのだと。あの結末に悲しいや素晴らしい、美しいものといった判断を下す価値はお前にはないのだと言っているようだった。 

heが何者であるかは関係なく、孤独で、一個体しかなく、理解の及ばない別々の存在として、"同じだ"と思えた理由はイライザ自身が作中でジャイルズに憤慨するシーンで伝えている。 
イライザはわたしを証明するものと、heを証明するものが同じであるなら何が違うのかと問いかける。観念的で哲学的なやりとり。 

しかしこれは、戦争の只中で時代に取り残され観念世界で生きてきたジャイルズだからこそ受け入れられた。芸術家のジャイルズにとっては世界は被写体である。これもまた立場としては研究者となんらかわらない。ただ、イライザが突きつけたことによってイライザというフィルターがあったということがジャイルズの救いだった。 

存在がモチーフであると受け取れることは大切で、あくまでもそれは人間による価値しかないのだということを伝えてくる。繰り返しだけど。 
登場人物の一挙一動がモチーフを壊さない。それこそが繰り返される毎日の理由でもある。恐ろしいほどに徹底されていた。 

heが猫を食べた時にジャイルズがそれを"習性だ"というシーンがある。あれは皮肉でもなんでもなくて。イライザが反応を示さなかったように、人間の当たり前と同じことをしただけというシーンだった。飼っている猫だからかわいそうって思うの?普段肉を食べてるくせに?怪物が殺したから?道徳や倫理に価値をおくのは人間が凶暴だからだろう? 
常に、常に、見て見ぬ振りをしてきたものをあげようとする監督が垣間見える。 


恋は脳の思い込みってやつなんだけど、今回それは"その他大勢の枠に入らないあぶれ者"によって作られる。これも典型的。 
"違うことによって自分と同じだと思うことにも価値はない。" 
自分以外は決して自分にはならないから。だから、あの描き方からは一緒というもう一段階が必要となるか、別離かがあることが示唆しれている。 

伏線なのか舞台装置なのかが多い作品だなぁって。でも描かれる全てにも、"同時に価値のないもの"や"ものの全ては特別ではない"という意味合いが込められている。 

悪役は誰だっただろう。イライザとheに銃を向けたストリックランド? 
本当だろうか?ストリックランドは未知なるものにひたすら刃を向けた勇敢な戦士だったのでは?彼が自己尊厳に突き動かされてなければheは兵器になっていたのでは?戦争の中で正しい人間はいたのか?今君達は無関係だから、誰かを悪役にしたてて悲しい結末の物語だったという倒錯に浸っているだけでは? 
終盤には違う正論をまたぶつけられる。 

イライザが撃たれることが悲しかった?けれど貴方は本当に、人間の肉を簡単に抉れる力を持つクリーチャーを同じように愛せるの?イライザが愛しているheだから愛せるの?随分と身勝手な理由だ。そんな風にも聞こえてくる。 

終盤まで監督の怒りが途切れることはない。戦争を、兵器を、ホロコーストを、きっかけを作った未来を動かす科学者たちを、今を動かす権力者を、過去を美化して見て見ぬ振りをする老人を、戦場になっていないからとたんたんとした毎日を過ごす労働者を、全てを憎んで問いかけられている。 

そして、画面越しにお前はどうなんだ。誰に移入するんだ。その感情は無知であり無垢などではないだろうとひたすらに美しい画面の中から問いかけられている。 

そういう意味で良い作品だった。とても衝撃があった鮮烈だった。美しい、甘美なものなど最初から描かないと決めていた監督にとって、悲しい結末だったという感想ほどつまらないものはないだろう。 

何を考え、自分を何と定義しているのか。その問いかけを2時間、美しい画面とともに行なっている。それだけの映画だった。

 

シェイプオブウォーターはそもそも、人間にとっての幸福などなんの価値もないことだ、アイデンティティも違う、比類ない孤独を受け入れろというステレオタイプの作品だった。だから酷似作品とかいう批判もまた価値のないものになる。

美しいものとして提供されるのを望んでいる人々へ対する怒り。 
美しいと思えるものを提供されなければ美しさを見出すことのできない程度への怒り 
感受性の乏しさへの怒り。価値観を与える側だと思っている傲慢さがあるくせ、加害者だと自分のことはカケラも思っていないような人間性への怒り 

あの作品を見てもなお美しさや結末を語ろうとする基準や潔癖への怒り 

終始それらを拾い上げては問いかけている監督は、よく現代に生きているなと思ったくらい。人魚のイメージは昔見た映像から得たものらしいけれど、そこに恋があることと美女と野獣の結末を賞賛する人々への嫌悪感は何かきっかけがなければ繋がらない。 

何故醜いままでは愛せないのか。醜いものを迫害した綺麗さだけで、わたしも綺麗だとのたまう人間たちが許せないのだと言う思いが伝わってくる。 

ふと、最後のシーンで苦しみながら童話を書いていたアンデルセンを思い出した。宮沢賢治だってそうだけど、彼らは子供向けと謳われる作品を書いているふりをした作家たちだ。そこには残酷さや冷徹な視点も組み込んでいるのに、きたなさを描くからこそそこから美しいものを拾う人々の習性を理解している。なにかを突きつけようとする人たちは"皮肉"になるものを必ず組み込む。 

後味の悪さは、常に自らが持ってくるものである。 

どうして、人ではないものの孤独を描かれていたのに、人並みのカタチの幸せを幸福とし、あの結末を不幸と呼べるのだろう。 
人ならざるものであるのに、自分たちの枠を押し付けて勝手に悲哀だとできるのはどうしてなんだろう。 
heが神であれクリーチャーであれ、そもそも共存というのがどれだけ難しいのかを便利で平和ボケした人々は忘れているのだと監督は最後示したかったのではないかなと思う。 
ペットという共存で満足している人たちの思う共存を唾棄しているんだろうと思う。 

生も死もない概念こそ、幸福も悲哀も語られぬ空間こそが、同じではないものたちを測らない場所である。 

他にいないという孤独を知らない人間へ投げかけられた作品だったなと思いながら2時間を過ごしました。

アベンジャーシリーズ

配信でアベンジャーシリーズとシビルウォーがあったので、観ました。

撮りかたが格好いいとはこういうことね!!!

前職場にもマーベルが好きな人がたくさんいてオススメされていたんだけど、なかなかシリーズで続いているというし登竜門もわかっていないしでだらだら見送っていたんですけどわかっちゃいたけど申し訳ない。ようやく惚れました……

一応デップーとスーサイドは見たことがあったのだけど(どっちも好き)アベからでもいいよと言ってくださって…ありがとうございました(敬服)

 

うへええカメラいくつあるの!アクションかっこいい……

細かい設定とかは追いつけているわけではないのでわからないんですけど。とにかくアクションや、登場シーンが格好いい!

アイアンマンすごいなー!ハロウィンでちゃんと光る仮装をしている方がお店にきていたのですがやっぱり本物はやばい。そしてめちゃくちゃ仕事する!

対立関係とかをちゃんとわかっていなくて申し訳なさもありながら、3作観ました。

みなさんの感想から漏れずナターシャがイケメンン

 

カメラワークとかがどうこう、設定がどうこうと語れるわけではないので大したことも言えない。けどマーベルにある、善人と正義と現実の矛盾を人間ドラマとして、そのキャラクターの業としていれるところ好きです。

神様は神様らしい視点を。人間には人間の感情に振り回される近しい視点を。

人間がヒーローをやるからには生じる矛盾を隠さない。バッドマンとかダークナイトとか観ていればもうちょいちゃんとした感想が言えたんだろうな……

 

ぬああ、ダークナイトをこれから観ます。ダークナイト、マーベルの中では一番気になっていたから満を持して観る。観るぞー!

 

あ、あとDr.ストレンジも観ました!アサクリみたいだかっこいー!

あのバリバリのイギリス顔で東洋魔法なのね。でも、建物ががんがん動かされる映像とても好きです。冒頭で心を掴まれたならボスがどういう次元にいようとも見ちゃうよね。まっじで冒頭の戦闘シーンかっこよかった……

 

気を抜いていたところ連続ベネディクト主演だったなあ。いっつも不思議な顔立ちの方だなあと思って観ているのだけど。

エンシェント・ワンの女優さん、絶対にみたことあるのに誰だっけー!と母とうんうん唸ってたんですけどあれだ!ナルニアの女王様だ…!うんねんぶりにお見かけしましたが相変わらず魔女らしい顔されてますね。大好きです。

映像としてストレンジめちゃくちゃ好きでした。建物とか蔵書とか弱いのよ。